研究所に滞在する最後の日であるにもかかわらず、アカデミック には非常にディープな一日であった。 ある意味では、この一年間の出来事がすべて凝縮されたような日で あったような気がする。
ウィンター・スクールは中盤を迎え、 今日はテルアビブからAndelmanやKozlovも来ている。 午前中ははLipowskyの講義。 Prostに引続き分子モーターの話。 ファッションとは言え、どうして彼が分子モーターを扱うのか 少し不思議な気がした。 後追いはしないはずの人なのに。 でも初心者にとっては、Prostの講義よりも分かり易かったし、 全体的にクリアだったと思う。
Andelmanと一緒に昼食をとり、今後の研究の方針などを 話し合う。 昼食直後には、LipowskyとAndelmanと私の3人で、膜の粘着 に関して共通に興味を持っている内容について議論する。 この仕事に関しては、Lipowskyはある意味でライバルなので、 非常に緊張して議論に臨んだ。 ところが、例によってまた私一人がだまっている状況になって しまう。 相手に話させないほどの勢いでしゃべりまくる二人の顔を 交互に見るしかない。 それでも今後の協力体制が確認されたという点においては 意味があったのではなかろうか。
それが終ると今度はSafranと、ここ数ヵ月取り組んできた問題 について最終的な研究打合せをする。 一部分おかしいと感じていた点があったのだが、それに ついての間違いも指摘してもらい、非常にすっきりとした。 この内容に関しても、とりあえず目鼻をつけることができたので、 私としては一安心する。 後は帰国後にまとめることになろう。 Safranとも最後のお別れ。
晩にはUlrichが最後に会おうということで、7時半に彼の アパートに招待してくれる。 奥さんのStefaniがキッシュを焼いてもてなしてくれた。 お互いにビデオを撮ったり記念撮影をして、9時過ぎに 自宅に戻る。
さあ、明日はいよいよ出発だ!
最後の荷物を郵便局から発送。 残りは手荷物だけだ。 気分的にさっぱりとする反面、家の中が空っぽになって なんだか寂しい気もする。
ウィンター・スクールの二日目で、午前中はSackmannの講義。 講義内容は私の研究テーマとも重なる部分が多いだけに、 余裕を持って聞くことができた。 Sackmannは引退が近いということだが、学問的にはまだまだ 現役という印象を受ける。 もちろんすべてが彼自身の仕事ではなく、彼のグループ内の 研究成果であろうが、巨大な研究グループを引っ張っていく 彼のリーダーシップには凄いものがあると思う。
午後には東北大の佐野雅己さんがパソコンを使って発表。 さすが、ハイテク・ニッポン。
夜は同じアパート内の日本人家族の家で、最後の日本人集会。 ベエルシェバからドラえもんも駆けつけてくれる。 最近知り合ったレホボトに住む鳥取大学からの女性留学生、 九大に留学していたYosef Adanも参加。 ピザを買ってきて簡単に済ませる予定であったのに、 会場の日本人の奥さんが、またまた料理に腕をふるって 下さったので、大変豪華な食卓となった。 申し訳ないが、ありがたい。
日本では決して会うことのなかった人々と、こうしてイスラエル で親しくできたのもきっと何かの縁に違いない。 日本人の滞在者が少ない国であるだけに、彼らとのつながりは 我々にとって大変重要な意味があったと言えよう。 色々な意味で彼らに感謝するとともに、彼らのこれからの イスラエルでのご活躍を期待したい。
今日からヴァイツマンで " Physical Aspects of Biological Systems"という ウィンター・スクールが開かれている。 最初にProstの講義があったので参加してみる。 分子モーター。 私が素人ということもあろうが、あまりピンとこない。 生物物理(特に理論)の難しさを感じる。 久しぶりにLipowskyに会う。
同じアパート内のペデルセン家に夕食を招待される。 デンマークから来ている彼らとは、我々と家族構成 が近いこともあって、特に妻は色々とお世話になった ようだ。 異国にあっても、慌てずにどっしりと暮らしている 彼らの生活ぶりには好感を持っていた。
小さな子供が2人もいるのに、我々のために手の込んだ デンマーク料理をわざわざ準備してくれ、すっかり恐縮 してしまう。 その暖かいもてなしを大変嬉しく思うと同時に、 彼らともお別れしなければいけないことを寂しく感じる。
ホテルでゆっくりと朝食をとった後、 我々が昨年の4月にイスラエルでの生活をスタート させたハヤルコン公園近くのアパートを再び訪れて みる。 天気が良いせいもあって、休日のハヤルコン公園 は親子連れでごった返している。
住宅街の中に車を停めて、我々が住んでいたアパート まで歩いていく途中で、当時の懐かしい記憶が鮮明に 甦ってきた。 アパートの前で記念撮影。 昨年の4月にはすでに夏の気配が感じられたが、今は まだコートがないと肌寒く、当時咲き誇っていた色とり どりの花もまだ準備中である。
車でカルメル市場の近くへ移動する。 もちろん今日は市場は開いていないので、人影もまばらである。 このあたりには、イスラエルを代表する詩人であるビアリク の住んでいたビアリクハウスや、画家ルービンの絵画 を集めたルービン美術館などの文化的施設が集まっている。 娘が車の中で昼寝中だったので、妻と交替でビアリクハウス の中に入る。 ビアリクの書斎では、古い書籍が本棚にぎっしりと収められて いて、当時の彼の仕事ぶりがうかがえる。 引続き同じ通りにあるルービン美術館にも入ってみる。 妻はルービンの明るいタッチの絵が気に入ったようだ。
2時にAndelmanの家族と待ち合わせた日本レストランのある 通りを、地図で探しながら車で移動する。 4月にこのあたりを歩いた時にはまだなかったはずなので、 少し心配になる。 それでも、すぐに「大波」という漢字が書かれたのれんが目 に入ってきて、広くて小ぎれいな店内に入る。 店の壁には、日本の寿司屋のように、ねたが札に書かれて 並んでいる。 店長の話によると、昨年の7月にオープンしたばかりらしい。 ほどなくして、Andelman夫妻と娘さんのMichaelが現われる。
予想はしていたものの、メニューを見るとやはり結構な値段で、 今日は招待して下さるということでもあったので、多少遠慮して 少なめに寿司を注文する。 イスラエルでにぎり寿司を食べれるとは思ってもみなかった。 しかもかなり味が良かったので、大いに満足する。
プレゼントとして手の形をした飾り物を頂く。 "Good Luck"の意味があるそうだ。 娘はMichaelから花の人形をもらってご機嫌だ。 彼らには本当にお世話になった。 最後にこのようなゆったりとした時間を共有する機会を 作ってもらったことに改めて感謝したい。
食後、シャバットで落ち着いているテルアビブを皆で散歩する。 最後のテルアビブ。
最後のエルサレム。 帰国する前に、どうしても嘆きの壁を見ておきたかった。 嘆きの壁はこれまでにも数回訪れたが、ユダヤ人の アイデンティティーが凝縮されているこの地点にもう一度 立って、その独特の雰囲気をしっかりと胸に刻みつけて おこうと思ったのだ。
いつも通りヤッフォ門の前に車を駐車して、ダビデの塔 を右に見ながら、狭いアラブの商店街に入って行く。 娘は妻におんぶ紐でくくり付け、私はベビーカーを肩に 下げて、緩やかな階段を下りていく。 この道も何度か経験したので、今日は歩きながらビデオを 撮影する余裕があった。 途中で何度もビデオカメラを見つけた客引きに"How much ?"と 聞かれる。 目を合わさないようにする。
シャバット前の嘆きの壁はいつもの様子だ。 太陽が雲に隠れてしまうと急に肌寒くなる。 今日は紙製キッパを頭にかぶせて、壁の近くまで行き、 一心不乱にお祈りしているユダヤ人の側でそっと壁を 触ってみた。 数えきれない人々によって繰り返し触れられた石の表面は つるんとしていて、ユダヤ人の熱い思いとは裏腹にひんやり と感じられる。
30分程度壁の前の広場で過ごした後、左右の土産物を 覗きながら、同じ道を引き返してヤッフォ門まで戻る。 今晩はAndelman夫妻と、テルアビブ美術館でのジャズの ライブに行く予定なので、余計なことはせずにそのまま 車を1時間ほどテルアビブまで走らせる。 宿泊する海沿いのグランド・ビーチホテルに到着すると、 ちょうど太陽が地中海に沈むところであった。 何度も感動したこの景色も、今日は最後ということで 少し寂しく感じる。
ホテルで夕食を済ませ、娘を風呂に入れてから、私だけ タクシーでテルアビブ美術館に向かう。 受付でAndelman夫妻がすでに待っていてくれた。 今日のライブはDonald Harrisonカルテット。 Coltrane特集ということで、Coltraneの曲をたくさん演奏 したが、「アルトのDonald Harrisonがどうして?」と思わない でもなかった。 それでも会場のお客さんの反応はとても良かった。 ライブが終わったのは12時過ぎ。
ホテルまで車で送ってくれたAndelmanとは、明日会う場所 を打ち合せしてお別れ。
今晩はSafranの家族に夕食を招待していただいた。 Safranの奥さんもヴァイツマン研究所で働くコンピューター 関係の研究者なので、忙しい合間を縫っての夕食会だ。 しかも今日はたまたま彼らの友人の突然の御不幸があり、 お昼には夫妻でハイファまで行ってきたそうだ。
6時に研究所にほど近い自宅を訪れる。 19歳と11歳の2人の娘さんを合わせて4人でのお出迎えだ。 敬虔なユダヤ教の家庭であるのに、随分モダンなインテリアの 家で意外な感じがする。 (ユダヤ教の人には失礼だが、彼らの伝統的なファッションは どう見ても洗練されているとは言えないのだ。)
彼らの家の中での会話は英語で、そのペースについて行くのは 結構きつい。 特に11歳の娘さんの英語はわからない。 飲物をご馳走になりながら、差し上げた千代紙で妻が鶴を 折ってあげるとなかなか喜ばれた。 Safranが家の中を案内してくれる。 個人の家でも地下シェルターがあるのはイスラエルならでは。
しばらくしてから車でレホボト市内にあるアラブレストランに 案内してもらう。 カバブやシシリクが美味しいお店だ。 日頃忙しいSafranとは研究以外の話はなかなかできない のだが、今日は奥さんも含めて色々とプライベートな話が 聞けて非常に興味深かった。 その中でも強烈に印象に残ったのは、Safranのお父さんに ついての話題である。
Safranのお父さんはポーランドで生まれ育ったが、ナチスの 迫害を逃れるために、1939年にポーランドを脱出した。 その時、あの「日本のシンドラー」とも呼ばれる杉原千畝の 「命のビザ」を取得し、ロシアを経て日本までたどり着いた。 福井から神戸に移動して、そこで7ヵ月ほど生活したらしい。 ちなみにポーランドでは9割のユダヤ人が殺された。
私は今までにホロコーストをここまでリアルに感じたことは なく、思わず身震いをした。 杉原のビザが無ければ、Safranもこの世にいなかったわけで、 その一つのビザの重さを考えると熱いものがこみ上げてきた。 杉原は6000人のビザを発行したが、その子孫も含めて 考えれば無限の数の命を救ったことになるのだ。
甘い個人主義に溺れていた私にとって、まさに目の覚める ような話であった。 同じ日本人として杉原の行為を非常に誇らしく思う一方、 自分としてそういう状況で一体何ができるのか考えさせ られた。
最後のテルアビブ大学訪問。 いつものように電車を利用してテルアビブに出る。 出発前にレホボトの駅でビデオを撮っていたら、 兵士たちに不思議そうな目で見られた。
テルアビブに着いて大学に行く前に、近くの銀行で小切手を 換金し、イスラエル政府から支給された今月の滞在費を 受け取る。 残り一週間ではとても使えない額のシェケルなので、 すぐにドルに替えておく。 もちろん円に替えたいのだが、イスラエルの普通の銀行では 無理。
今日の目的は、ポツダムのマックス・プランク研究所で 最近博士を取得したばかりのThomas Weiklのセミナーに 出席することだ。 彼は来週ヴァイツマンで開かれる研究会に参加するために イスラエルを訪問中で、今日と明日はテルアビブ大学で Andelmanがホストをしている。 彼の博士論文の内容は、私とAndelmanの研究と非常に近い ため、突っ込んだ議論をしようというわけだ。
11時から始まったセミナーは、AndelmanとKozlovがかなり シビアな質問を繰り返したため、予定を大幅に過ぎて1時 頃終った。 Thomasはあまり予想していなかったようで、かなり疲れた 様子だ。 昼食を済ませて、ThomasとAdenlmanと私の3人でそれぞれ の仕事に内容に関して議論を続ける。 Andelmanaは途中で帰宅する用事があったので、その後は 私と2人だけで雑談も交えて色々と話をする。
Thomasは今年の8月からアメリカでポスドクを始めるそうだ。 まさに駆け出しの研究者であるわけだが、これまでの仕事は どうしても彼のボスであるLipowskyのモデルを忠実に調べた という感が拭えない。 彼がこれからどのようなオリジナリティを発揮するか注目 していきたい。 なんて、偉そうなことを書いてしまった私にどれだけ オリジナリティがあるかは怪しいが、彼と議論して多少 なりとも経験の差は感じた。
オフラ・ハザというイスラエルの国民的女性歌手が41歳の 若さだ亡くなり、テレビで追悼番組をやっている。
パーティーが終り、荷物も発送したので再び落ち着いて 仕事ができるようになる。 以前からのブラシの計算を続ける。 予想とはかなり異なるスケーリング則が得られたので戸惑う。 何か間違っているのかも知れない。 落ち着いて考え直す必要がありそうだ。
荷物の発送のごたごたで、家の鍵をどこかでなくしてしまった。 ご丁寧にも"Europa House 12"と書いてある札をつけたままだっ たので、さっそく管理人に連絡して、家の鍵をつけ替えて もらった。 これで安心して過ごせる。
パレスチナの最終地位交渉における枠組合意の期限は今月で あったが、最近は目立った進展がなく、枠組合意の期限も5月 に延期された。 イスラエルはシリアとレバノン、パレスチナの2.5ヵ国と同時に 交渉を進めようとしているが、パレスチナ側から見ると、自分だけ を相手にしていないのが気に入らない。
まあ、数千年に渡る問題を半年で解決するのは無理であると考える の自然だろう。 2月までというのはあまりにも性急で、イスラエル国民は誰もが 交渉の遅れを予想していたようである。
昨日、重い荷物を運んだので全身が筋肉痛である。
読者は「幕屋」という言葉をご存知であろうか? 幕屋とは、原始キリスト教を信仰する日本の宗教グループのこと である。 実はこの幕屋のメンバーでイスラエルに来ているという日本人が 多い。 私も一人会ったことがある。 イスラエルでも、若い日本人がいると「マクヤか?」と聞かれる ほどである。
そんなことを昼食でRonyとUlrichに話していたら、話題が私の 範囲を超えて、どんどんまずい方向に進んでしまった。 お父さんが牧師であるUlrichに向かって、ユダヤ人のRonyが 「キリスト教の教会は自分にとっては悪の象徴である」と言い出す 始末。 「ホロコーストでプロテスタントはユダヤ人を助けようとした」 とUlrichが主張しても、Ronyは「カトリックとプロテスタント の区別など自分には関係がない」と相手にしない。 普段、気の良いRonyがこんな言い方をするのは、よっぽど 虫の居所が悪かったに違いない。
さて、昨日からスイスのチューリッヒ工科大学とヴァイツマン研究所 の合同の研究会が開かれている。 内容はマテリアル・サイエンス一般で、ヴァイツマンのReshef Tenneが 全体の責任者である。 どういうわけか、Reshefは私を今晩の夕食会に招待してくれていた。 昨日は荷物の発送で一日費してしまったし、今日の講演内容も 今一つ私の研究と関係ないので、研究会には一度も顔を出さない まま、夕食会だけ参加することになった。 少しまずいかな。
8時に会場に行くと、案の定知らない人ばかりで、さすがに困って しまった。 どういうわけか、SafranやKleinらが来ていない。 完璧に浮いてしまった。 それでも仕方なくテーブルに一人で座っていると、たまたま 初対面のヴァイツマンの研究者夫妻が私の隣に座ってくれた。 奥さんが色々と気を利かして話し相手になってくれたので、 どうにか食事の時間を過ごすことができた。
食事中はずっとピアノとヴァイオリンの生演奏があり、食後には カイザリアの沖合いで2400年前に沈んだ船に使われていた釘を 考古学的に研究している人の講演があった。 こういう雰囲気をヨーロッパのインテリは好むのね。 10時半帰宅。
日本への荷物を送り出すために、午前中にレンタカーを 借りる。 郵便局は12時半で一旦閉まるし、その前に現金を 引き出しておかなければいけない。 急いでいる時に限って、レンタカーの迎えの車がなかなか 来ないでいらつく。
最初に、昨日までに準備した船便5箱を、郵便局に持って行く。 船便の値段が日本の半額程度なのは有難い。 局員の対応も親切で、無事に送り出すことができた。 面白いのは、重量計の上に荷物を載せるのを決して局員が やらないで、お客にさせること。
午後は研究所の負担で送る荷物を3箱、研究所内の郵便局に 持って行く。 こちらは荷物の中身が、仕事ですぐ必要な論文や書籍類なので、 どれも結構な重さだ。 航空便で送るにはかなりの高額になるため、Safranのサインが 必要となる。 彼は火曜日まで出張なので、それまで荷物をそこに置かせて もらうことにする。
再び家に戻って、さらに船便1箱と航空便2箱を作り、 5時過ぎに再び郵便局へ運ぶ。 手順も馴れてきた。 終った、終った。
荷物だけでほとんど丸一日潰してしまったが、大部分の荷物を 送り出すことができて、かなり気分的に楽になった。 すっかり広くなった部屋を眺めていると、帰国するという 実感が湧いてくると同時に、一抹の寂しさも感じた。
安息日。 我々にとっても本当に安息を必要とする日。
と言っても、今日中に荷作りの最終仕上げを済ませないと いけないので、あまりのんびりとはしていられない。
普段より早く起きて、1時からのパーティに備える。 あっという間に時間が過ぎる。
1時きっかりに学生のDima Lukatsukyが登場。 続いてSafran夫妻。 早速、昨日の日記に書いた「名前探しゲーム」を面白がって やってくれる。 次にRony Granek、Ulrich Schwarzの家族が登場。
少しおいて王茜とご主人。 彼らは中華料理を持参してくれる。 (今日が中国の正月の最終日) 豆と米粒を使った箸の講習を終えてから、食事を始めてもらう。 Yoram Burak登場。 このあたりで最初の盛り上がりを迎える。 残念ながらSafran夫妻は、宗教上の理由から我々の料理は 一切口にできない。
テルアビブ組が序々に登場し始める。 Yoav Tsori夫妻が生後1ヵ月半の赤ちゃんを連れてくる。 この段階でSafran夫妻、 王茜夫妻、Granekらが帰宅する。 入れ替わりでAnton Zilman、Kozlov夫妻が到着。 すでにパーティー開始後3時間経過。 多少中だるみ。
4時半を過ぎて、Andelmanの家族が最後に登場。 再び、箸の講習会をする。 5時半あたりに折り紙講習会をして、多少場が持ち直す。 6時以降は、Andelmanの家族、Kozlov夫妻と Yoramのみ残る。 だべりんぐ。 7時お開き。
虚脱、放心、腰痛。
明日は我が家で、お世話になった人を全員招いて お別れ会をすることになっている。 全員が来てくれるとすると、20名を超える 人数が集まるので、我が家としては最後の一大イベント である。 ここ数日間は、妻が気が狂ったように料理を準備している。
困ったのがパーティの開始時間の設定。 最も重要なお客さんであるSafran夫妻は、敬虔なユダヤ 教徒であるため、金曜日のシャバットが始まる前にシャバット 中の食事の料理などをすべて済ませておかなければいけない。 シャバットの開始時刻は夕方の5時頃なので、どうしても 3時頃までには帰宅する必要がある。 もちろん、シャバットになれば彼らはシナゴーグに行く。
一方、テルアビブから子供連れできてくれるAndelman などは、娘さんが学校から帰宅するのが1時過ぎだから、 早くても3時にしか来れないのだ。 仕方ないので、やはり1時からということにして、 それぞれ可能な時間に来ていただくという形にした。
パーティがかなり長時間にわたることが予想されので、 何か企画を用意しておかなければ場がもたないと思い、 あれこれと知恵をしぼる。 そこで考えたのでが、参加者の名前を平仮名で書いた名札を 壁に貼っておき、さらに50音表を渡して自分の名札を 探し出してもらうというもの。 あとは箸で米粒をつまんでもらうことと、折り紙。 明日はどうなることやら。
昨日は、ドイツのラウ大統領が、ドイツの大統領として初めて イスラエルの国会で演説したという歴史的な日であった。
9時過ぎにレホボト発の電車に乗ってテルアビブに向かう。 最近は電車でテルアビブに行くことが定着してきた。 バスで行くよりはるかに疲労が少なくて済むし、時間も 正確だ。
セミナーの前に、Andelmanと一緒に大学の事務へ滞在費の 小切手を受け取りに行った。 2月中の滞在費は「イスラエル国際学術交流会」という、 日本の学術振興会に対応する機関から支給されるのだが、 この手続きでAndelmanが手間取っている。
なんでも、今年から制度が変わり、大学が間に入って 一旦私に費用を支給する形になったため、ある額以上に なると税金がかかってしまうのだ。 そこで、結局私の滞在中に大学から予定された額の半分だけ が支給され(すると税金がかからない)、残りは後日イスラエル 国際学術交流会から日本の私に口座に振り込まれることに なったのだ。
肝心のセミナーの出席者は、AndelmanとKozlovと学生3人。 内輪、内輪。 しかもAndelmanとの共同研究の内容なので、ほとんどKozlov に説明するようなもの。 さすがに準備不足がたたって、英語はしどろもどろだったが、 Andelmanが適当にサポートしてくれて、大いに助かった。 色々とコメントしてくれたKozlovには改めて感謝したい。
それでもやはりセミナーということで緊張してのか、帰りの 電車の中では虚脱状態になり、ぼんやりと外の景色を眺めていた。 セミナーだけではなく、もっと大きなことが終ったような 気がし、別世界に運ばれていくような錯覚を覚えた。
先日、「となりのインド人」家族の誕生日パーティーに招か れた時に私がビデオの録画をしていて、彼らがそれをダビング して欲しいとのこと。 最初、彼らの家のビデオデッキでダビングしようとしたが うまくできず、結局同じアパート内の別のインド人の家に行って 目的を果たした。 そこで、たまたま彼らが作っていた「ブリ(?)」と呼ばれる小麦粉 を使った、餃子の皮を揚げたようなものをご馳走になる。 スパイシーなソースと一緒に食べると非常に旨い。 ラッキー!
明日はテルアビブ大学でセミナーをすることになっているので、 OHPや内容の確認を行う。 Andelmanの研究室の内部セミナーのようなものなので、 多少たかをくくって、あまり入念な準備はしてこなかった。 一度OHPを作ってからは、そのままにしてあったのだ。
しかし今回の内容は初めて英語で話すため、実際にどういう ことをしゃべるか考えてみると、そう簡単にはすらすら と出てこないのである。 おまけに今週は風邪をひいてしまい、今日はほとんどよくなった ものの、今一つ集中力に欠けている。 急速にブルーが入る。
しかし、あと2週間で帰国と考えると、思わず「やり逃げ」という 言葉が頭に浮かんでしまった。 どんなにひどい出来であっても、明日のセミナーさえ終れば一応 アカデミックな義務はすべて終る。
そして、結局真面目に準備しないのであった。
夕方、バスセンターで大買物。
どうやら今回の風邪は単なる風邪で、インフルエンザでは なさそうだ。 相変わらず鼻水や咳の症状はあるものの、体温は平熱なので なんとかもちこたえている。 昨日よりはやや回復した気がする。
タオルで口と鼻を押えたまま、午前中のセミナーに出席。 今日の講師はベングリオン大学のYuval Golanで、 内容はフラーレンのトライポロジー。 Israelachiviliの所でポスドクをしてきた人だ。 我々は彼らの実験を念頭に研究を進めてきたので、内容的には よく知ったものであったが、実際に話を聞いてみると新しい 内容も含まれていて、大変勉強になった。
ヴァイツマンで出席できるセミナーもこれが最後になりそうだ。 いつもと変わらない一日であったが、残りの滞在が少なく なってくると、こういう何でもない一日がとても貴重に思え てくる。
風邪。 一日中、鼻水と格闘。 知的な仕事はできそうにないので、帰国のために本や書類を整理する。
レバノン情勢は落ち着きを取り戻したようだが、イスラエル兵が また1人死亡。 (死者は1月25日以降で計7名。)
家族揃って大寝坊。 ホテルの案内で朝食の時間を確認すると、すでに終っていることに なっている。 大失敗。 諦めてゆっくりと身支度をして、どこかカフェでも探そうかと 思ってロビーに降りてみると、食堂でまだ食べている人達を発見。 急いで係の人に尋ねてみると、どうぞということなので、 何か非常に得をしたような気分で、3人でがつがつと食べる。
遅い朝食後は、車で数分のバハイ神殿を訪れる。 バハイ教は1817年にテヘランで始められた宗教で、ハイファを 聖地としている。 このようにユダヤ教以外の宗教にも寛容であることがこの町の 特徴だ。
バハイ神殿は庭園がきれいなことで有名なのだが、行動できる 範囲も狭いし、人工的な印象が強く、少し期待はずれ。 神殿内も何の変哲もない部屋が一つ公開されているだけで、 靴をぬいで行列を作って見るほどではなかった。 庭園内はたくさんの人でごったがえしていたが、多分がっかり している人が多いに違いない。
気をとり直して、20キロほど離れたアッコを訪れてみる ことにする。 ここは以前、旧市街のアラブの雰囲気に馴染めず、途中で 引き返した場所でもあり、再度の挑戦というわけだ。 今回は海岸まで車でぬけて、アッコ・マリーナという港に 駐車した。 海沿いには雰囲気のよいレストランが立ち並んでいる。 その中の一軒で、軽い昼食をとる。
正面にクロックタワーがそびえ立つハーン・エル・ウムダン (柱の宿)という古い隊商宿を通り抜け、ベネチア広場に出る。 向かいにはシナン・パシャ・ウムダンというモスクがある。 この辺りは、アラブのにおいがぷんぷんと漂ってくるようだ。 (下は土産物屋の画像。生首ではない。) アラブは自分に直接の影響がない限り、非常に興味深いの である。 道端の屋台のおじさんが大声で叫んでいる横で、アラブ人の 集団が水パイプを吸っている。
3時過ぎにアッコを離れて、途中でメギドという国立公園に 寄ってみるが、すでに閉まっていて中を見ることはできなかった。 残念。
イスラエル滞在中最後の泊りがけ旅行ということで、今まで 2度計画して実現できなかったハイファに行くことにする。
お昼過ぎに自宅を出発。 雲一つない快晴。 テルアビブ、ネタンヤ、カイザリアを順調に高速道路で通り 過ぎて、約2時間でハイファに到着。 この町は、神戸のように山が海に迫った地形をしている。 高速道路が終ると、すぐに山の手のカルメル地区を目指す。 気圧の変化のせいで耳がおかしくなるほど急な勾配の坂を 登っていく。 ここで生活する人は車なしではやっていけないだろう。
しばらく道に迷ったりしたものの、無事にハナシ通りという 大通りに出て、予約しておいたNofというホテルにたどり着く。 このあたりには幾つかホテルが集まっているのだが、残念 ながらNofは他のホテルと比べて明らかに見劣りする。
それでもチェックインして部屋の窓からハイファの町並みと 地中海を眺めていたら、爽快な気分になった。 遠くに霞んでいるのはアッコの町だろうか? 右手の山はすでにヨルダンのはずだ。
おやつを食べて、ホテルの近辺を散歩する。 特別な観光はしないで、ただ何となくぶらぶらするのも 良いものだ。 夕食にはまだ少し時間が早かったが、皆お腹が空いたので、 ハナシ通り沿いの適当なレストランに入る。 私はシュニツェル、妻はベイクトポテトを注文する。 味も量も大満足。 特にオニオンスープが美味しかった。
7時過ぎにはホテルに戻ってのんびりと過ごす。 ハイファの夜景も昼間の風景に負けず劣らず美しい。 ぼーっと夜景を眺めていたら、イスラエルに来てからの 様々な出来事が頭によみがえってきた。
久しぶりにテルアビブへ行く。 最初の用事は、半年前から妻が借りていたヴィオラを返却する こと。 ヴィオラを貸してくれた(もちろん有料で)ヨッシーという人は ピアノの調律師で、今日は仕事で出かけているため、私が彼の 仕事先まで行って渡すことになっている。 ハシャローム駅で降りてタクシーをつかまえ、運転手に 携帯電話をかけてもらい、指定された場所まで行く。 スパイ小説のようだ。
到着した所は大きなホールで、ヨッシーはそこのロビーの ピアノを調律していた。 初対面なのに、"Hallo ! Mister !"と大声で近寄ってくる。 髭をたくわえた典型的なキッパ姿のユダヤ人だ。 楽器を確認してもらって、無事に返却終了。 再びタクシーでテルアビブ大学に向かう。
ドイツとパリで2週間過ごして戻ってきたAndelmanから、 向こうでの様子を色々と聞かせてもらう。 午後3時に彼の自宅にアップグレードされたパソコンが 届けられるということで、話を中断して、車で10分ほどの 彼の自宅へ戻る。 何故か自宅にはAndelmanのお母さんが居て、初めてご挨拶をする。 もう80歳のご高齢で、すぐ近くにお住いらしい。
再び大学に戻り、今後の研究の方向性について議論する。 電車でレホボトに戻ったのは8時近く。
レバノンでのイスラエルの攻撃は今日も続いているようだ。 レホボトでの平穏な日常生活と、レバノンでの戦争はどうし ても結びつかない。 正反対のものが常に共存しているのがイスラエルの特徴だ。
先週のSafranとの議論に基づいて新しく始めた計算の結果 が出る。 計算の直後でまだ多少興奮が残っているせいもあるのだが、 それなりに意味のある結果ではないかと思う。 今後の応用を考えると、ブレイクスルーの予感がするが、、、
昔、戸川純が「となりのインド人」というパンク調の曲を 歌っていたが、なんと現在我が家の隣には本当にインド人 家族が住んでいる。 そこの娘さんが1歳の誕生日を迎えるということで、我々 も晩に招待されていた。
このインド人家族は珍しいことにクリスチャンで、その関係 の人がたくさん集まってきた。 一番多い時には30名近くになり、あらゆる肌の色の人種が勢 ぞろい。 インド人による本格的なインド料理をいただき感動。 あまりのおいしさにさらに感動。
これって戦争?
レバノンでのイスラエルとヒズボラの戦闘がさらに激しく なってきた。 これまでのヒズボラの攻撃に対する報復として、イスラエル 側は今日の未明、レバノンの電力施設などを狙った大規模な空爆 を展開した。
これに対してヒズボラがカチューシャ砲でイスラエル側を 攻撃してくることが予想されるため、イスラエル北部には 非常事態宣言が発令され、国境近くのキリヤットシュモナの 住人は地下シェルターで生活している。 イスラエル兵もさらに2名死亡し、この2週間での死亡者は 全部で6名となった。
昼食の時、Rony Granekとレバノン情勢の話題になったが、 彼の話によると、今回のヒズボラの攻撃の背後にシリアの 影響があることは明らかであるらしい。 先月始まったイスラエルとシリアの和平交渉で、シリアは ゴラン高原の返還を交渉の前提とする立場をとっている。 しかし、イスラエルがそれを拒否しているため、脅しの 意味で横からナイフを突き付けるがごとく、ヒズボラに イスラエルを攻撃させているというわけだ。 彼に言わせると、それがアラブ流の交渉の仕方だそうだ。
もっとも南レバノンを占領しているイスラエル側にも 問題はあると思う。 これがアラブ人の感情を逆なでしているのは当然だ。 バラクとしても基本的にはイスラエル兵を南レバノンから 撤退させるつもりであり、まさにそのためにシリアと和平 交渉を進めようとしているわけだ。 しかし、結果的にこのような戦争状態に陥ってしまうのは 皮肉としか言いようがない。
午前中はJ. P. Hansenのセミナー。 この人の名前は"Theory of Simple Liquids"という有名な教科書 の著者として知っていた。 こんな教科書を書いている人だから、すでにかなり年老いた人 を想像していたのだが、実際にはまだ現役という印象を受けた。 背が高くて体も大きいので、de Gennesを彷彿とさせるものがある。 声もでかい。 フランス人であるというのは意外であったが、比較的最近ケン ブリッジ大学に移ったようだ。
セミナーのタイトルは"Colloids and ions: repulsion, attraction and phase separation"。 コロイドのDLVO理論には含まれていない自己エネルギーの項(?) を考慮することで、塩濃度とコロイド粒子の体積分率を 変数とする相図が大きく変わることを主張していた。 さらに、壁の近くの2粒子間に引力が働くことも示していた。 (壁がなければ斥力。) 主張点は面白いと思ったが、実際にどのような計算をしたのかが 今一つよくわからない点が不満であった。
夕方、少しだけSafranと議論。
晩には妻がレホボト市内のコンサートに行く予定なので、少し早めに 帰宅して娘を風呂に入れる。 子育てにはほとんど関わっていない私だが、入浴と夕食後に 一緒にパソコンで遊ぶことが数少ない私の役割だ。 娘は五味太郎の「言葉図鑑-うごきのことば-」という アニメーションによる動詞の図鑑のソフトを大変気に入って おり、毎日毎日くい入るように見ている。 私も丸々3ヵ月以上付き合っているが、大人でも結構楽しめる よくできたソフトだ。
南レバノンでの情勢がさらに緊迫してきた。 先週に引続き、シーア派武装組織ヒズボラの攻撃で イスラエル兵がまた1人死亡し、7名が負傷した。
UlrichとRonyと一緒に昼食に行く。 Ulrichは昨日、エルサレムの北西に位置するエリコに行った という。 これには相当驚いた。
世界最古の町とされるエリコは、モーセに率いられてエジプト を出たイスラエルの民が、ヨシュアの指揮の下で最初に 攻め入った町として知られる。 新約聖書に中では、イエスが悪魔を退けた地でもある。
歴史的には大変興味深い町なのだが、1993年以来 ガザ地区とともにパレスチナ自治区になっており、 どうしても観光で訪れる場合には、アラブのバスかタクシー を使うように聞いていた。 少なくとも我々は決して訪れるべきではないと考えていた。 記述の甘い「地球の歩き方」でさえ、「個人での宿泊はすすめ られない」と書いている。
Ulrichの家族は1歳半の男の子を連れて、イスラエルの車で エリコに行ったわけだが、これは相当無謀なことである。 本人は「別に何も起こらなかった」と澄ましているが、イスラエル 人のRonyは「自分だったら決してそんなことはしない」と はっきり言っている。 アラブ人の町では、何か問題が起こってもどうにもならないのだ。
Ulrichの話によると、エリコには何の産業もないから、 経済的にはイスラエルからの観光に依存しており、 事実イスラエルナンバーの車をたくさん見たというのだ。 確かに、最近エリコにカジノがオープンしたという話しを 聞いたことがある。
まあ、無事に戻ってきたのでとりあえず良かったが、Ulrichも Ronyにきつく言われて、少しは反省しただろうか? しまいには、「戦時下のコソボに観光に行くようなものだ」と 批判されていた。
今日のエルサレムポストには一面を割いて日本の記事が二つ 載っていた。 一つは相撲の八百長問題と、もう一つは英語を第二公用語に するという話題。 どちらの話題も日本がいかに平和であるかを物語っている。
安息日。
最近のエルサレムポストの紙面では、オーストリアの極右政党 (自由党)に関する記事が多い。 先週、この自由党を含む連立政権が正式に発足したことに 抗議して、イスラエルは在オーストリア大使を帰国させた。 さらに自由党の党首であるハイダーは、イスラエルへの入国も 禁止されてしまった。 超危険人物というわけだ。
新しい連立政権は、イスラエルからだけでなく、EU諸国やアメリカ からも批判を浴びている。 日本はどのような態度をとっているのだろうか。 今後のオーストリアの外交政策に注目したい。
久しぶりに休日らしい一日を過ごす。
午前中はまず旅行会社に行き、帰国チケットの変更を正式に 行う。 対応してくれた女性は、以前に日本に半年ほど住んだことがある と言う。 道端でアクセサリーを売っていたらしい。 またこのパターンか。 日本でイスラエル人に会いたいと思ったら、アクセサリー売りを 探せばよい。
しばらくヘルツェル通りを歩く。 シャバット前のヘルツェル通りは人や車でごったがえしている。 すばらしく晴れ渡った空から、日本の初夏を思わせるような 太陽が照りつける。 乳母車を押しながら歩いていると汗ばむほどだ。
妻が以前から目星をつけていたユダヤ教 やイスラエル関係の品物を扱う店に行く。 メノラーやメズザー、タリート、キッパ、書籍などが所狭しと ぎっしりと並んでいる。 布製の壁かけなど、お土産物を数品買う。 カードでの支払いがうまくいかず、20分程度待たされる。 のんびりと待つ。
次にヘルツェル通り沿いの本屋で、"The Western Wall"と "Next Year in Jerusalem"という写真集を買う。 前者は「嘆きの壁」の前での人々の表情を様子を集めた 写真集で、なかなか興味深い。 自分で写真やビデオを撮る場合、特定の他人を被写体とするのは、 遠慮もあってなかなか難しいので、こういう写真集は有難いの である。
最後にパン屋でピザやピタパンを買い、研究所内のベンチ に腰かけて遅めの昼食をとる。 研究所の外の喧騒が嘘のようなのどかさだ。 しばし、芝生の上で娘と遊ぶ。
午後は昼寝。
いつもよりも早く起きて、研究所内の一画で木曜日の朝だけ 開かれる朝市を初めて訪れてみる。 イスラエルではここのところの大量の蜜柑が出回っている ので、我々も大きなビニール袋に一杯買ってみた。 イスラエルの蜜柑は日本のよりも大粒だ。 皮も厚くて硬く、どちらかと言えばオレンジに近い。 味はとても甘くて非常においしい。
最近は研究所へ通じる道端に、オレンジの皮が捨ててあるのを よく見かける。 行儀の悪いイスラエル人が歩きながら食べ散らかした痕跡だ。
ここのところ考えていた問題が行き詰まってしまったので、 Safranと2時間以上議論する。 問題点は認めてくれて上で、もっと簡単な状況で問題を 考えることを提案される。 そもそも出発点とした論文が間違っているからややこしいことに なったのだが、結局は自分ですべて考え直さなければいけない ということだろう。
夕方は久しぶりにバスセンターへ一週間分の買物に行く。 この日常的な行動もあと数回で終ってしまうと思うと、 少し寂しい気持ちになる。 たまたまビデオを持参していたで、思い出のつもりでスーパー マーケットの中を撮影していたら、そばを通り過ぎる客が不思議 そうな目で見ていた。 「なんで自分を撮影するのか」と尋ねてきた人もいる。
気になり始めた。 一旦気にしてしまうと、どうにも気になって仕方がない。
実は我々は2月28日にイスラエルを出発し、パリ経由で 29日に日本に帰国する予定になっている。 そう、2月29日はコンピュータの「うるう年問題」で危険日 とされている日なのだ。 パリから日本へのフライトが28日と29日をまたぐので、 もしもうるう年問題が生じれば、まともににその影響を受ける ことになる。
というわけで、この「うるう年問題」をインターネット上で調べて みた。 日本電子工業振興会という所(なんだ、これは?)は「うるう年 問題で障害が発生する可能性は2000年問題よりも格段に低い」 と見解を発表している一方、2000年問題よりもはるかに深刻で あるという説もある。 結局はっきりとしたことは分からないから問題なのよね。
今年の元日に墜落した飛行機があったわけでもなく、 別に気にしなければ、まず間違いなく何事も起こらないはずだ。 それでも半日悩んだ末に、帰国の日程を変更する決心をする。 早速、研究所の近くの旅行会社に行き、幸い簡単に3日後の便に 変更することができることを確かめた。 これを読んで笑う人がいるかも知れないが、本当に危険日 とされている日の飛行機を利用する当事者になってみれば、 私の行動を理解してもらえると思う。
Safranの講義も今日で最終回。 ミセルの自己会合と高分子鎖の統計。 全体の講義を通じての印象は、また別の機会にあらためて 書きましょう。
イスラエル滞在もとうとう最後の月を迎えることになった。
今日のイスラエルのトップニュースは、昨日レバノンとの国境近くで、 ヒズボラのの攻撃によってイスラエル兵3名が死亡し、4名が 負傷したことである。 さらに一昨日には、イスラエル寄りのレバノン将校が同じく ヒズボラの手によって暗殺された。
これによってバラクはシリアに対して、今後シリアがヒズボラの 活動を押えない限り、シリアとの和平交渉は再開しないと発表した。 シリアはレバノンの対して強い影響力をもっており、ヒズボラの 活動を制御するのもアサドの仕事というわけだ。 先月から始まったシリアとの和平交渉は暗礁に乗り上げてしまった ことになる。
イスラエルは国民皆兵制であり、あちこちで見かける兵隊姿の 若者の中の誰かがこういう形で現実に死んでいくことを考えると、 いくら平和ぼけした私でも、さすがに重い気分になる。 今日あたりは上空を飛ぶイスラエルの戦闘機の数が多いと思うのは、 気のせいであろうか? きっとレバノン方面へ向けて飛んでいるに違いない。 家の窓ガラスが戦闘機の爆音でみしみしと音をたてる。
イスラエル国家の存続が、今なお人命を代償としていることは、 すべてのイスラエル人が我が身の問題として認識していることである。 こういう現実があるからこそ、イスラエル人の平和に対する思いは 切実である。 この国にいると、国家と個人の関係を嫌でも考えさせられる。