イスラエルの地図 イスラエルの地図

不安なイスラエル日記(1月)


1月31日(月)

イスラエルとは何の関係もないが、日記を休んでいた間に、 桂文珍の「落語的学問のすすめII」(新潮文庫)を読んだ。 II巻では関西大学における文珍の講義録の後期分を収録している。 以前にこの日記でも紹介した同じ題名のI巻(前期分収録)が結構 面白かったので、II巻もつられて目を通してしまったのだ。

「ちゃっかり」桂三枝、「うっかり」桂きん枝、「しっかり」 桂文珍の三人が、お互いに兄弟弟子の関係であるということは 初めて知った。 しかも三枝と文珍は仲が悪いそうだ。

なるほどと思ったのは、芸能人を次のようなタイプ別に分けて いたこと。

当然、「見えていそうで、見えている人」がいてもよいわけだが、 これは文珍自身という意味なのだろう。 自分の知っている物理学者をこの分類にあてはめてみると、なかなか 楽しめます。
1月30日(日)

日記を再開します。 と言っても、あと1ヵ月でおしまいですが。

出張から戻ってきた私は、空港から家までタクシーを使ったのだが、 今回はまったくひどい運転手であった。 いくら夜で車が少ないとは言え、まずスピードの出し過ぎ。

それだけならまだいいのだが、この人どうやら相当眠いようで、 大あくびを何度も繰り返している。 眠気ざましに大音量で音楽を流したりするものの、あまり効果 が無いようである。 こちらも色々と話しかけたりして、なんとか眠らさないように 懸命に工夫する。 いざとなれば、私が横からハンドルを操作する覚悟だ。

信号停止する度に、前の車のおかまを掘りそうになるので、 ほとんど生きた心地がしない。 一旦、信号停止すると、今度は窓を全部開けてしまうので、 こちらは寒くてこごえそうである。

幸い無事に自宅にたどり着いたので、お金を払おうとして 料金を尋ねると、「あんたが払いたいだけ払え」などと言って、 正確な金額を言わない。 最初からチップを要求しているのだ。 もめるのも面倒だったので、少し多めのチップを払ってさっさと 別れることにした。

とにかく不愉快なタクシーであった。


1月16日(日)〜1月29日(土)

日記はお休み。


1月15日(土)

都合により、この日記を2週間ほど中断します。 いつも読んでくれている人には申し訳ありませんが、 もしも忘れずにいたら、また覗いてみて下さい。


1月14日(金)

先日、Rony Granekと話していたら、1972年の日本赤軍の テロで犠牲となったあカチャルスキーという研究者には兄弟がいて (兄だか弟だかは忘れた)、その人もヴァイツマン研究所の 研究者であったらしい。 さらにその人は、過去にイスラエルの大統領も務めたことがある とのこと。 現在はもちろん引退して、研究所内の住宅で生活している。


1月13日(木)

今日もどういうわけか良い事が重なり、SchwarzとSafranとの 共著論文を無事投稿。 二日続けて別々の論文を投稿したのは初めての経験だ。

家に帰る途中、Safranの学生のWeinstenが乳母車を押しているところに 出会う。 中を覗いてみると随分小さな赤ちゃんが眠っているので、何歳か 尋ねてみると、なんと生後8日目だと言う。 全然知らなかったのでびっくりして、慌てて「おめでとう」と言う。

彼とは今まであまり話す機会がなかったのだが、すでに子供が 二人いて、奥さんが働いているため、彼の方がドクターコースを中断 してしばらく育児に専念していたらしい。 私もヴァイツマン滞在の最初の間は彼の存在を知らなかった。 その後、博士号を取得するために、数ヵ月前から少しづつ研究に復帰 しつつあるのだが、3人目の赤ちゃんでこれからまた一層大変だろう。

彼は研究者としての人生は考えていないようだが、家族の中に何か別の 価値観を見出しているのだとう思う。 人生色々である。 「三人目が女の子で良かった」と言っていたのが印象に残った。


1月12日(水)

幸いなことに、ここのところ嬉しいことが続く。 Andelmanとの論文がようやく完成し、本日投稿。 思えばこの日を目指して、はるばる日本からやって来た のであった。 そう考えると感慨無量である。

Safranの講義もいよいよ大詰めだ。 本日は、電荷の揺らぎによって引き起こされる相互作用。 これは教科書の範囲を超えた、彼自身の最近の研究に基づく 内容なので、非常に興味深かった。 結果的には、同じ符号で帯電した界面間に「引力」が はたらくことになるので、全く不思議としか言いようがない。 最初はシミュレーションで見つかった事実で、今では実験的にも 検証されているらしい。

Safranの講義の最終的な試験はユニークだ。 10篇程度の論文のリストを学生に渡し、学生はその中から一つ 選んで簡単なレポートを書く。 その上でSafranが一人一人と面接し、内容について質問する。 学生の数がそれほど多くないので可能な形式だととは思うが、 私も将来どこかで試してみたいと思った。


1月11日(火)

朝、学生のDimaがわざわざ私の部屋にやってきて、 「昨日のセミナーは勉強になった」と言いに来てくれた。 礼儀正しい彼のこととは言え、こちらも思わず笑みがこぼれた。 一瞬何と答えて良いかわからず、「ありがとう」としか言え なかった。

Safranにもお褒めの言葉をいただき、私としては予想外に 好意的に受け止めてもらったことに逆に少し驚いている。 もちろんそれらをまとも受け取ってはそれこそ物笑いの種 であろうし、言葉のハンディなどを考慮して敢えて言ってくれて いるのだろう。 それでも、以前よりも精神的に彼らのグループに溶け込むことが できたような気がして、非常に嬉しかったです。

Ronyと昼食に行き、「コーゾー・オカモトを知っているか」 と聞いたら、「自分より上の世代の人で知らない人はいない」 のだそうだ。 もちろん彼も当時まだ子供だったが、視覚的に強烈な印象の 残っている事件らしい。

Ulrichが最終的に仕上げた共著論文に目を通す。 こちらも完成まであと一歩か。 細かい点までチェックして、夕方にUlrichと打合せ。 趣味の問題になると彼はなかなか譲らない。


1月10日(月)

朝から緊張の一日であった。

11時からはDepartment of Materials and Interfacesのセミナー。 最初は身内以外の人は全然聞きに来てくれないのではないか と心配になったりしたが、時間になると20人以上集まってくれて、 ほぼ部屋が一杯になった。 まずJacob Kleinが私の略歴を簡単に紹介してくれて、いよいよ 私の出番となる。

自分としては、それほど慌てずに落ち着いて話すことができたの が良かったと思う。 少なくとも時間配分を考えながら話すだけの余裕はあった。 質問は途中で4、5回、話し終ってからは5人程度にされた。 まずまずだろう。 お世辞だとは思うが、何人かの人がセミナーの後で「クリヤだった」 と言ってくれたのは、正直なところとても嬉しかった。 少なくとも主張したい点は伝わったのだろう。

Safranは話の途中でも適当に補ってくれたりして、実はかなり 助けてもらった。 Ulrichの突っ込んだ質問に対しても、私の代わりに答えてくれる 場面もあった。 将来はもっと自立しなければいけない。

UlrichとRonyと昼食に行くが、彼らはこの分野の専門家なので、 私のセミナーの内容について延々と議論し続ける。 今度は私が聞き役である。

少しだけの休憩をはさんで、2時からはrecitation。 今日は学生にレポートを返却し、彼らの出来が悪かった問題の 解説を行う。 ひたすら板書を続け、なんとか2時間が経過。 授業終了後、二人の学生が、自分の解答のどこが間違って いるのかと聞きにきた。 私の見落としもあったので、加点してあげることにする。

疲れたことは疲れたが、想像していたほどの疲労感はまだない。 恐らく精神的なダメージがそれほどなかったのだろう。 一番疲れたのは、実は足。 日常では3時間も立っていることがないのだ。 気分を一新するために、夕方にロシアの散髪屋に行った。 最終的には髪も気持ちもさっぱりとした一日であった。 ようやく恐怖の一日が過ぎ去った。

日本の「ハッピーマンデー」など、私は今週まで知らなかったぞよ。


1月9日(日)

Rony Granekと一緒に昼食に行き、途中から割礼の話題になる。 ユダヤ人にとって割礼は、神との契約という非常に重要な意味がある。 しかし以前の日記にも書いたように、これだけはどうしても詳しい ことがわからないので、根堀り葉堀り聞き出す。

Ronyはほとんどユダヤ教の戒律に従わない人間であるが、男の子が 生まれた時には、生後8日目にやはり割礼をしたそうである。 割礼を施すということは、宗教的な理由よりもむしろ習慣といった 側面が大きいようだ。 本人達よりもむしろ家族など周囲の圧力で結局するはめになることが 多いらしい。 子供が少し大きくなって割礼をしていないことがわかると、 周囲の子供からいじめられることもあるそうだ。

割礼は一種の手術なので、資格を持った特別な人達が行う。 割礼を職業とする人のリストがあるそうだ。 彼らはそればかりやっているので、医者がやるよりはるかに 上手である。 一回の料金は500シェケルから1000シェケル(2万5千円) 程度。 日本の葬式でお坊さんにお経を読んでもらってお金を払うのと 同じようなものなのだろう。

私としては衛生的な事がどうも気になる。 抵抗力のない生まれたての赤子が感染症などにかかったりはしないの だろうか。 そもそもどう考えても自然な事ではないし、わざわざそこを切らなくても という気がする。 割礼をすると成人してからの性生活に悪影響を及ぼすという説も あるらしい。 とにかく不思議な習慣だ。

アメリカで行われているシリアとの交渉は、行き詰まっている ようだ。 CNNなどでは連日トップニュースとして報道されているが、 日本ではどのように扱われているのだろうか? ところで、私も日本にいる頃はそうであったが、シリアやレバノン、 ヨルダンとイスラエルの位置関係がわからない人も多いと思う。 そのような方は、上のイスラエルの国旗をクリックして下さい。


1月8日(土)

10日の私のセミナーについて、Safranからは「聴衆はほとんど 化学者だから、なるべく彼らにわかるように初歩的なことから話す ように。我々の研究室の人にとっては退屈でも構わないから」 と言われている。 彼は勇気付けてくれているのだろうが、実はこれがまた悩みの 種になっている。 相手が同業者であれば、式を見せればすぐにわかってもらえるのだが、 それが通用しないとすると、全部言葉で説明しなければいけないのだ。

それでもどういうわけか、今日あたりになるとセミナーとrecitationに 対する極度のプレッシャーから少し解放される。 要するに開き直ってしまったのだろう。 失うものはないことを再認識する。 それでも小心者の私は、いくつか複雑な言い回しについては暗誦して おくことにする。

夕食後、突然の停電。 結果的には2時間程度で復旧したが、蝋燭や懐中電灯の備えもなく、 真っ暗闇の中で不安な時間を過ごした。 エアコン以外の暖房もないので、よけいに心細く感じる。 このような経験はいつ以来だろうか。 日常いかに電気に依存した生活をしているか思い知らされる。


1月7日(金)

今週はイスラエル各地でかなりまとまった雨が降ったようだ。 シリアとの国境沿いにあるヘルモン山では1メートルの積雪が あり、2年ぶりにスキー客を迎えられることになった。 一方でテルアビブの南のヤッフォでは洪水が発生し、 家を追い出された人もたくさんいるようだ。

ガリラヤ湖の水位は7センチメートル上昇した。 これからもまだヨルダン川からの水が流入するだろうから、 さらに水位の上昇が見込めるとのこと。 イスラエル国民はきっとほっとしているに違いない。 それでもレッドラインよりもまだ15センチメートルも低いので、 水不足問題の本質的解決にはほど遠い。

今イスラエル国民はアメリカで開かれているシリアとの交渉 の行方を見守っている。 2日から始まっているこの交渉も、大きな成果が得られないまま ユダヤ教の安息日に突入してしまい、現在交渉は中断している。 雪が積もったヘルモン山もシリアに返還することになるのだろうか? 交渉が失敗すると、ヤッフォの洪水のようにすべてが流されて しまう可能性がある。


1月6日(木)

Safranが授業で配った2回目のレポート問題を眺めていると、 電荷を帯びた棒状分子の問題があり、結構難しそうだ。 Safranに聞いてみると、この問題は昔の有名な論文からとって きたそうで、実際にその論文を見せてくれた。

その論文は1951年に発表されたもので、当時ヴァイツマンにいた 研究者が書いたものである。 1951年はこの研究所ができてまだ2年目ということになる。

目を引いたのは3人の共著者の中に、カチャルスキーという人が 含まれていたこと。 実はこの人、1972年5月30日にロッド空港(現在のベングリオン 空港と思われる)で起きた、あの岡本公三を含む日本赤軍のメンバーによる 銃乱射事件で犠牲になった研究者なのである。 資料によると、25人が死亡し70人が負傷した。

岡本公三は事件の直後に、イスラエルで終身刑の判決を受けるものの、 1985年にパレスチナとイスラエル間の捕虜交換で釈放される。 (背景をよく知らないが、レバノン戦争の終結と関係しているのだろう。) 1997年から偽造旅券使用の罪でレバノンで服役中だが、今年の3月に 刑期が終了する。 現在、日本政府が釈放後の岡本公三の身柄引渡しをレバノンに要求して いる。

私の所属するDepartment of Materials and Interfacesの秘書である Herutは、皆の母親的な存在でもあるが、彼女は昔カチャルスキーの 秘書をしてたらしい。 「世界一有能な秘書」と褒める人もいる。


1月5日(水)

Safranの講義。 溶質で誘起される相互作用、すなわち大沢文夫先生の「枯渇力」。

来週の10日は運の悪いことに、セミナーとrecitationが重なって しまったため、猛烈なプレッシャーがかかってきた。 その日は人前で3時間も話さなければいけないかと思うとぞっとする。 とても落ち着いて日記などを書いている心境になれない。

あるアメリカ人研究者の論文の中で、ある式が間違っているので、 以前からメイルで問い合わせていた。 話は少しややこしくて、その人も別の論文からその式を引用 しており、そのオリジナルの論文の式も間違っているので、 オリジナル論文の著者と打合せの上で、誤りを正したとわざわざ 書いているのである。 それでも間違っているのである。 単なる印刷ミスかどうかわからない。

2週間ほど待って、今日ようやく返事がきたのだが、

「自分の計算ではないのでわかりません」

本人にとってはすでに過去の仕事なので、今更余計な事はしたく ないという気持ちはわかるが、もしかしたら自分の論文がすべて 間違っているのではないかと不安にはならないのだろうか? 私が質問したことなどは4、5分で確かめられることなのに。

自分でやるしかないということは最初からわかっているのだが、 そう簡単ではないのが悩みの種である。


1月4日(火)

朝から珍しく激しい雨が降っている。 気温もぐんと冷え込んだ。 あまりにも雨足が強いので、午前中は家で仕事をする。 昨日の議論に基づいて、論文を修正する。

今まで私が何気なく使っていた単語で、いくつかおかしいもの を指摘された。 例えば、"effectively"の使い方がおかしかったり、"system"という 単語を使い過ぎると言われた。 その他にも、能動態で書くかあるいは受動態で書くかというのも、 どうもそのバランスが悪いようだ。 冠詞はそもそもお手上げだ。

英語が貧弱でも内容がしっかりしていれば気にすることはないと 思いつつも、中身もそれほど立派ではないので、なんだか非常に 情けない気分になってくる。


1月3日(月)

朝からテルアビブ大学に行き、Andelmanと論文の打合せ。 あと一歩、あと一歩と思いながらここまできてしまったが、 今度こそ本当にあと一歩ということになればよいのだが。

昨日のFaculty DayのことをAndelmanに話したら、大学の 場合にも3年間のお試し期間があるが、そのまま残れる 可能性は95%以上とのこと。 逆に言えば、大学では最初に採用されるのが大変なのだ。

イスラエルでも物理で職を得るのは極めて難しい。 そもそも大学の数が限られており、全部で7つ程度しかない。 そこにロシアからの移民などがたくさん押しかけているので、 当然アカデミック・ポジションの競争は厳しくなる。


1月2日(日)

Faculty Dayということで、研究所内の人の成果発表会がある。 単なる恒例行事かと思っていたら、実質的はまだテニアを取得して いない人の審査会なのだとRony Granekが教えてくれた。 彼もまだテニアを取得していないので発表しなければいけない。

ヴァイツマンのスタッフには最初5年程度のお試し期間がある。 正確には博士号取得後の年数がカウントされ、およそ 9年というのが一つの節目になるらしい。 ポスドクを2箇所で4年経験した後にヴァイツマンで採用 されれば、5年のお試し期間となる。 ポスドクがもっと長ければ、お試し期間はそれだけ短くなる。

ヴァイツマンで生き残れる可能性は50%程度なので、現実はかなり シビアである。 日本のように、原則としてすべての職が最初からパーマネントという のは、世界的に見るとかなりおかしな制度であるような気がする。 教官の任期制も導入され始めてはいるが、まだまだ一部にしか過ぎない。

自分は博士取得後7年になるが、仮に自分がヴァイツマンにいると すれば、そろそろお試し期間が終る頃である。 今までの私の仕事ではとても生き残れるような気はしないが、 こういう私が日本では職を得ているという現実を考えると、 日本にももっと世界的な競争原理を導入しなくてはいけない のではないかという気がする。


1月1日(土)

娘が病気なので、結局さえない年明けとなってしまった。 それでも、先日帰国した日本人家族が分けてくれたお餅でお雑煮を 食べることができたので、去年よりはましか。


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