イスラエルの地図 イスラエルの地図

不安なイスラエル日記(4月)


4月30日(金)

テルアビブでの最後の週末ということで、夕食にAndelman家 を招待した。 Andelmanは何度か来日していてせいか、相当な日本食好きな ようで、自分でお酢、みりん、ごま油、醤油などを買い込んで いる。 今回はそれもお借りして、簡単な日本食を用意してみた。 (用意したのは私の妻。) やはり、日本から炊飯器を送っておいたのは正解だった。 7時過ぎにアパートに来てくれて、約3時間の楽しい時間 を過ごす。 途中で私の娘が大ハッスルして、食卓を荒らしまくったのには 閉口した。

こちらに来て以外だったのは、豆腐が普通のスーパーで買えること である。 あと日本の大相撲が、"Euro Sport"とかいうケーブルテレビで 放送されているのも驚いた。 先週は、春場所を放送していて、千代大海が初めての大関でどうの こうのと解説(英語)していた。 よく考えてみると、こちらに来てからまだ家族以外の日本人を 見かけていない。 千代大海の顔を見ると、思わずほっとするものがあったぞ。


4月29日(木)

今考えているモデルの特別な場合が、以前調べたことの あるモデルに対応することがわかる。 これで、かなり見通しが良くなった気がする。 (気がするだけかもしれない。)

昼食後、テルアビブ大学のUrbachのセミナーがある。 彼は化学科の所属であるが、理論の物理家さんである。 Kozlovと同じように、彼も1990年にロシアから移住してきた 移民の一人である。 セミナーの内容は摩擦の話で、(物理では)ファッショナブルな 話題だ。 簡単なばねモデルを提案していたが、これと似たような仕事を している人は多そうだ。 彼のモデルはシンプルで面白いと思ったが、もう少し彼の仕事の 位置付けを話して欲しかった。

夕方からは、Orlandの提案で、彼の家族と私の家族で会うことに なった。 Orlandには2人子供がいて、14歳の息子ジョナタンはフランスで 日本語を長い間、勉強しているらしい。 8歳の娘クロエも、最近日本語を始めたとのこと。 せっかく習っている日本語を話す機会を作ろうというわけだ。 ハヤルコン公園内のカフェで妻(+娘)と待ち合わせて、2時間 程度お茶を飲みながら、楽しく談笑した。 ジョナタンは不完全ながらも恥ずかしがることなく、日本語を 喋ろうとしていて、大変好感が持てた。 漢字も少しづつ覚えているようだ。 長女のクロエもひらがなは読める。 彼らに漢字の名前を考えてあげた。 「如奈旦 折蘭」と「黒絵 折蘭」。 彼らもうれしそうだったが、両親も子供が日本語を話すのに 目を細めていた。

彼らはもちろんに英語も話せるのであるが、平均的な14歳の 日本の中学生の英語よりも、ジョナタンの日本語の方が遙かに うまいと思う。 お父さんはフランスの超エリートで、おそらくジョナタンも 同じ道を目指しているだろうから、決して平均的な子供では ないかも知れないが、非常に感心させられた。 イスラエルには数カ国の言葉が話せる人はざらにいる。 やはり日本は外国語の習得に関しては遅れていると思う。 別の見方をすれば、日本語だけで生きてこれた平和な民族 ということであろう。


4月28日(水)

朝、大学でバスを降りたら、オフィスの鍵がついた財布を アパートに忘れたことに気付く。 どうしようもないので、家まで取りに帰ろうと思ったが、 なかなかバスが来ない。 じりじりと太陽が照りつけてくる。 そこへ偶然Orlandが現れたので、事情を説明する。 彼にオフィスの鍵を開けてもらって、お金も借りる。 助かった。

午前中は計算のチェックを行う。 今のモデルでよいのかも知れない。 午後は、学生のHaim Diamantと話をして、最近の研究に ついての話を聞かせてもらう。 界面活性剤と高分子の混合系におけるCAC(Critical Aggregation Concentration)について、面白いモデルを考えている。 彼は、今年の夏に学位を取得する予定で、その後Tom Witten の所にポスドクで行くらしい。 非常に物理的センスのある学生で、将来が楽しみだ。 Andelmanも期待している。 明日は別の学生と話をしてみよう。

「数理科学」から原稿依頼がくる。 どなたが、推薦してくださったのでしょうか? (なんとなく想像がつきますが、、、) お楽しみに。 テルアビブでの生活も、あと一週間。 来週の水曜日にはレホボトに引っ越す。


4月27日(火)

Andelmanがモデルの提案をしてくれる。 私も同じモデルを考えていたが、これではいけないのではないか と思っていたものだ。 彼の主張もわからないではないが、もう一度落ち着いて考えて みよう。

午前11時前からKozlovと会って、最近の彼の研究の話を聞かせて もらう。 いろいろな事情があって、彼は現在テルアビブ大学の医学部に 属している。 現在進行中のプロジェクトを3種類ほど話してくれた。 非常に個性のある研究者で、幅広くがっちり研究をしている。 彼はつい最近tenureを取得したばかりで、「ようやく論文書き に追われなくてもすむ」と言っていたのが印象に残った。 努力の人だ。

午後にはOrlandがLinuxからネットワークにつなぐ作業を手伝って くれた。 彼は40代後半の人だが、結構UNIXの事も詳しい。 いろいろと調べてわかった事は、Windows使用を前提とした登録しか 計算機センターでなされていなかったということ。 最終的にに新しいIPアドレスをもらって、めでたくつながった。 私のパソコンのホスト名は"shepp"というのだが、 Orlandが「何か意味があるのか?」と尋ねるので、 「あるジャズマンの名前だ」と答えると、 すかさず「ああ、Archie Sheppか!」と反応したのでびっくりした。 「このおっさん、ジャズを知っている!!しかも、先生を」 なんだか、非常に親しみを覚えた。


4月26日(月)

セミナーで発表する。 グループ内のセミナーで、時間もあまり気にすることはなく、 積極的に質問してもらったおかげで、主張したい点は比較的 良く理解してもらえたような気がする。 セミナー終了後に、何人かの人が「とてもクリアだった」と 言ってくれて、こちらもほっとした。 さすがに、2時間近くも話していると、何度かしゃべり始めた英語 が崩壊することもあった。 しかし、そんなことはどうでもよい、と開き直れるだけ、少し は進歩したのかもしれない。

昨日から、フランス人のHenri Orlandが研究室を訪問している。 その彼とも今日から同室だ。 今までずっと部屋で一人だったので、すぐ側に話しができる人が できてうれしい。 彼もノートパソコンを持参していて、私と同じようにLinuxと Windowsをインストールしている。 そう言えば、先日会ったDesaiもそうだった。 このパターンは物理学者にとっては、世界的な標準になって きているような気がする。 彼はEuropian Physical Journalのeditorでもあるのだが、 BinHex形式(Macの圧縮形式)で送られてきた論文をLinux上で 開くのにらえい苦労していた。 無理もない。

ところで、来月のイスラエル総選挙の政見放送が、今日からテレビ で始まった。 今日の昼食中も、選挙の話題だった。 誰が首相に当選するかは、本当に誰もわからないそうだ。 これからの熱い終盤戦から目が離せない。


4月25日(日)

最近は就寝前に、栗谷川福子という人が書いた「ありのままの イスラエル」(柏書房)という本を読んでいる。 この人は、東大の理系の修士課程を終えて就職した後、辞職して イスラエルに行き、ヘブライ大学文学部ヘブライ語学科を卒業した人 で、日本では有数のヘブライ語研究者らしい。 この本は日本に来る前に一度目を通していたのだが、今改めて 読むと非常によくわかる箇所が多く、つい夢中になってしまう。

栗谷川氏がイスラエルに最初に渡ったのは1975年で、 日本赤軍の岡本公三らがベングリオン空港を襲撃し、100人 近くの死傷者を出した直後であった。 並々ならぬ決意でイスラエルに行った彼女は、自分の死体処理 も考え、大学病院に献体登録をしたとのこと。 私はまだヘブライ語が読めないので、どうしても吸収できる情報 に限りがあるのだが、この本はさすがにイスラエルやヘブライ語を 熟知した人の体験記だけあって、非常にすばらしい内容だ。 文章も上手で、私などこの日記を書くのが恥かしくなるほどだ。 イスラエルに興味のある人には是非お薦めです。


4月24日(土)

引き続きセミナーの準備をした後、モデルについて考える。 なんか、問題がwell-definedでないような気もして、すっきり しない。 狙った効果が出るような作為的なモデルも考えたが、自分でも 納得できない。

夜はAndelman家で、グループ内のパーティーが行われた。 参加者は我々の家族の他に、Roman Mints夫妻、Misha Kozlov夫妻、 学生のHaim Diamant夫妻、Yorav Tsori夫妻、Burak Yoramで、 Andelman家の人を合わせると総勢16名になった。 楽しい会話とおいしい料理で、すっかりいい気分になってしまう。 皆さん、娘にも細やかに気を配ってくれて、何かと相手をしてくれる。 こんな異国の地で、こんな手厚いもてなしをしていだいて、 深く感謝するとともに、我々は大変恵まれていると素直に思った。

日本人は、外国人留学生などに対して、もっと日本を気に入って もらえるような対応をするべきである。 そして、できるだけ多くの「日本ファン」を作る必要がある。 それが国際化の第一歩だ。


4月23日(金)

来週セミナーを行うので、午前中から午後にかけて、 そのための準備をする。 あたって砕けるしかない。 どうせ英語は本質的な問題ではない。 それから現在のモデルに関連している(と思った) 論文を読む。 これはこれでいいけれど、あまり参考にならんな。

夕方から海岸近くに出かけてみることにした。 今日は風が強かったが、海では泳いでいる人や、ウィンドサーフィン を楽しんでいる人がたくさんいる。 日本の7月くらいの陽気だろうか。 近代的なホテルが立ち並んだ海岸線を2km程度散歩すると、 身も心も爽快になった。 最初は遠くに見えたヤッフォの街並みもぐんぐん近づいてくる。 ピンクの壁が印象的なオペラタワーまできて、簡単な夕食を とる。 オペラタワーと言ってもいわゆる雑居ビルで、Tower Records なんかも入っている。 明日の晩、Andelmanの家に招待されているので、ジャズ好きの 彼にCDを買うことにする。 いろいろ考えて、結局Getzの"Sweet Rain"にする。 こちらは17%の付加価値税が課せられているが、それを含めて およそ日本と同じ程度の価格だと思う。 日本で(再)発売されたジャズのCDもたくさん輸入されており、 それらは日本語の帯のまま売られている。 実は、日本はジャズが売れる唯一の国なのだ。 その他にもゲームセンターのコーナーには、日本製の ナムコのドライビングゲームが置いてあり、画面には 「遊び方」などと日本語がそのまま表示されている。 一瞬ここはどこかと思ってしまう。


地中海に沈む夕陽

帰宅する直前に、ちょうど夕陽が沈もうとしていた。 地中海に沈む太陽は何度見てもきれいだ。


4月22日(木)

モデルが単純過ぎるので、もう少しひねってみることにする。 なんとなくイメージはあるのだが、式でうまく表せない。 週末、ゆっくり考えてみよう。

昼食は、AndelmanとMints、Kantorと一緒に行く。 Kantorは"polymerized membrane"で有名な人だが、 「1990年にドイツで会ったのを覚えているか?」と 聞いてみたら、「自分は昨日会った人も覚えていない」と 言った。 おいおい、ずいぶん愛想のない人だな。 昼食中、AndelmanとKantorが他愛のないことで論争している。 これがイスラエル人の議論の仕方かと思いながら、テニスの試合の 観客のように、二人をきょろきょろと交互に見ていた。 とても私は割り込めない。 Kantorには何も考えていないやつと思われたかもしれない。 まあいいや。

午後からはコンスタンツ大学のDietrichのセミナーに出席。 壁(境界)がある時や薄膜でのスピノーダル分解の話で、 状況はわかり易いのだが、物理が今一つよく見えない。 どういう長さのスケールが新たに含まれるのか?

以前に我々の提案したモデルを拡張した論文を見つける。 今まで、これ以外にも自分達の論文が無視されることが 多いので、素直に"Komura and Kodama's model"と書いてくれる のはうれしい。 少し大げさかもしれないが、知識の蓄積に多少なりとも貢献できた のかも知れない。


4月21日(水)

独立記念日。 1948年5月14日、Ben Gurion総裁が イスラエル建国を宣言し、初代大統領にWeizmannが就任した。 日付が違うのは、ユダヤ暦に基づくから。 私が5月から滞在するWeizmann Instituteは、この初代大統領 にちなんで付けられている。 Weizmannはもともと化学者で、その研究成果が第一次世界大戦中に 役立ったとされる。 日本も、もう少し学者が政治家になってもよいと思う。 群論の講義中に、居眠りしている学生にチョークを投げつた 有馬文部大臣、がんばって下さい。

午前中は、今まで対応していなかったメイルに返事を書く。 テレビでは、イスラエルフィルの60周年記念とかで、 Methaの指揮でブラームスの2番を演奏している。 その他にも、Perlman、Stern、Barenboimらが出演している。

今日は、日本のイスラエル政府観光局の方から嬉しいメイルが来た。 この「不安なイスラエル日記」を、 イスラエル政府観光局の公式ホームページ からリンクを張っていただけるとのこと。 イスラエルに興味のある人や、これからイスラエルに行く人にとって 貴重な資料であると認識していただいたようだ。 とてもうれしいです。 そういえば、先日も「この日記を読んで、早くイスラエルに行きたく なりました」というメイルをいただいて、感激したばかりである。 ここまで恥を忍んで書いてきた甲斐がありました。

夕方、1時間程度いつものハヤルコン公園を散歩する。 今日はものすごい人出で、いたる所でバーベキューをやっていた。


4月20日(火)

今日はAndelmanがWeizmann InstituteのSafranに会う用事 があるので、一緒に連れて行ってもらうことになっている。 Safranは私の5月からのホストである。 午前9時にAndelmanが車でアパートに迎えに来てくれて、 約40分でテルアビブの郊外にあるレホボトに着く。 レホボトはテルアビブから25km程度離れており、 人口が8万人程度の小さな町である。 Weizmann Instituteも、きれいで恵まれた環境の研究所だ。 Safranと昨年のイタリアでの国際会議以来の再会を果たす。 その他にも、Klein、Zilman、Tlustyらとも会って握手をする。 AndelmanとSafranが打ち合わせをしている間に、私は 昨日会ったDesaiと議論をする。 その後、AndelmanとSafran、私の三人で簡単な打ち合わせ。

Safranは用事があったので、Andelmanとレホボトの街で 昼食をとることにする。 「シシリク」という肉の串焼き料理をいただく。 日本の焼き鳥の4倍くらいの長さを想像してもらえばよい。 レホボトは5月から10ヶ月以上生活するところなので、どの 程度不便なのか心配していたが、最低限の生活はなんとか なりそうだし、人も結構たくさん見かける。 少しほっとする。 ただし、テルアビブのような高層建築は見かけない。 2時過ぎに大学に戻り、大して意味のない計算をする。

さて、今日は戦没者追悼記念日で半休日であったが、明日は 独立記念日で祝日である。 昨日の日記にも書いたように、一日は日没から始まるので、 イスラエルでは今晩から独立記念日を祝う。 一日の中で、喪に服していた状態から、一気に喜びの状態への 相転移があるようなものだ。 このような振幅の大きさはイスラエルの特徴かもしれない。

夜からはいたる所でお祝いムードになるが、Andelmanの誘いで 彼のアパートの近所の広場でのお祭りを見に行ってみることにした。 お祭りは8時過ぎから始まり、ちょうど日本の町内会の盆踊りと 学校の学芸会を混ぜ合わせたような状況だ。 子供達がステージ上で次々に歌や踊りを披露していく。 打ち上げ花火でお祝いムードは最高潮。 人々の表情も大変明るい。 子供達は泡状のスプレーをかけ合ってはしゃいでいる。 ただし、しっかり警察が監視している。 日本では建国記念日に相当するのかも知れないが、全然違うな。 Andelmanの10歳の娘さんの踊りが終わった時点でタクシーで帰宅 する。 軽い興奮の残る一日であった。


独立記念日の前夜祭


4月19日(月)

考えているモデルで、ねらっている状況が説明できることが わかる。 わかってみれば簡単な事であった。 第一段階はクリアしたかもしれない。

午前中はAndelmanのグループのインフォーマルセミナーで、 講師はカナダのトロント大学のDesaiである。 ブロック共重合体における異方的な揺らぎから、ミクロ構造の安定性 を議論した論文をいくつか出している理論家で、実はイスラエル に来る前にかなり読んでいたのである。 今日もその話であった。 こういう偶然は狭い物理の世界では時々起こるものだ。 彼は2ヶ月前からWeizmann Instituteに滞在しているとのことで、 ちょうど私と入れ替わりになる。 話はなかなか上手で、私もいくつか気になっていた事を質問する。 しかし結構、オタクな計算をやっているな。 お昼はDesaiを囲んで、大学内のVIPルームで食事をする。 彼はもともとインド人で、アメリカで学位をとり、トロントに長く いるらしい。 非常に紳士的なおじさんで、好印象をもつ。

夕方には物性グループ内のセミナーがあり、講師はベングリオン大学 のGottliebであった。 W/OマイクロエマルションにABAブロックを混ぜた系のレオロジー 測定の話をしていた。 少し状況が複雑ではあるが、私は面白いと思った。

イスラエルは明日、戦没者追悼記念日である。 ユダヤ教では一日が夜から始まるので、正確に言うと今晩の8時から 始まり、さきほど大きなサイレンが鳴り響いていた。 明日は休日ではないが、大学の授業が休講になるため、大学内では 今日の正午から式典を行っていた。 芝生の上に設営されたステージ上で、テルアビブ大学の戦死した 学生の氏名が全員読み上げられ、続いて学長、学生部長(のような人) が話をしていた。 ステージ上にはギターを弾きながらフォークソングのような歌を唄う 人もいる。 おそらく学生は全く強制されているわけではなかろうに、自然と会場 の周りに集まり、真面目な表情で式典に参加している。 イスラエルは最近でもレバノンと局地的な戦争をしている。 学生にとっても、決して他人事ではないのであり、極めて自然に 戦没者を思う気持ちが湧いてくるのであろう。 テレビでも戦死者の氏名が延々と放送されている。

日本人(特に若者)は、国家と個人の関係をもっと深く認識する 必要がある。 靖国神社を参拝する閣僚を悪人のように扱う日本のメディアは 変かもしれないぞ。 (小林よしのりの影響を受けたかな。)


4月18日(日)

出勤日。

暑い。今までは、朝晩が冷えるために一応セーターを持参して いたが、今日はもういらない。 先週からのモデルを、少し一般化して計算してみる。 しかし、今度は一般的過ぎて、ねらった状況がどういう条件で 起こるのかわからなくなる。 夕方、Andelmanとお茶を飲みながら議論する。 意図した物理的な仕組みがモデルに含まれているのか、もう一度 考えてみることにした。 しかし、一般的な計算のおかげで見通しは良くなった。

物理関係の私の知り合いが、「(北半球では)南の国に行くほど 文化が猥雑になる」と言っていたのを思い出す。 猥雑な事を思いつくままに書き並べると、

私としては、一般的に細かい事に気を使わなくてもよいので、気楽で やりやすいと思っている。
4月17日(土)

安息日。

午前中は家から歩いて10分程度のエレツ・イスラエル博物館 に行ってみる。 ここはダビデ王、ソロモン王の時代の遺跡の上に建てられた 集合博物館である。 世界有数のガラス細工を集めたガラス館、貨幣鋳造歴史を 追ったカドマン貨幣館、古代の陶器を集めた陶器館などがある。 私には展示品の価値がよくわからないので、博物館自体には あまりピンとくるものがなかったが、全体がきれいな公園のように なっているので、くつろいだ一時を過ごすことができた。 子供連れが多い。 家の近くでサンドイッチを食べて、帰宅。 午後は計算モデルを考え直す。


エレツ・イスラエル博物館、陶器館

Lonely Planetが出版している、イスラエルのガイドブックに はまる。 この本は世界版「地球の歩き方」といった感じの本であるが、 ゲイやレスビアンのための情報まで書いてあるところがすごい。


4月16日(金)

繰り返しになるが、この日は日本の土曜日にあたる。 今日は家族を連れて大学に行った。 といっても、仕事をしにきたわけではなく、キャンパス内 にある、ユダヤ人の離散(diaspora)に関する資料を集めた ディアスポラ博物館を見学するためだ。 最初に、以前に日記にも書いた大学の購買部で子供用の絵本を 2冊購入した。 それから、構内を歩いて博物館へ向かう。 ここのところずっと快晴で、日差しがとても眩しい。

博物館には、古代から現在までの数千年間の大量虐殺や離散 の歴史が、スライド、遺品、模型などを使って展示されている。 全部を丁寧に見るには1日がかりの内容なので、今日のところは ざっと見ることにする。 中国にあったシナゴーグの模型は興味深かった。 全体を通して、世界中で散り散りになりながらも民族のアイデンティティ を保ち続けたユダヤ人の強烈な民族意識、しぶとさ、したたかさなどが 感じられる。 日本人で民族のアイデンティティを意識している人がどれほどいるで あろうか? 日本人が日本にいることを当たり前だと思わない日本人など ほとんどいないであろう。 もちろん一般の観光客を対象とした博物館であるが、 このような立派な施設が大学内にあることがすばらしい。 ユダヤ人の歴史を学問的にも研究しているわけだ。


ディアスポラ博物館

博物館内で軽食をとり、お昼過ぎに帰宅。 一週間の緊張をともなった仕事と、昨晩の徒歩の疲れが 残っている。 午後は休息。 夕刻、短い散歩。


4月15日(木)

午前中は、昨日の簡単なモデルで計算をしてみる。 うーん、簡単過ぎてトリビアルな結果しか出てこんぞ。 午後にAndelmanと話して、必ずしも無意味ではないことは わかるが、もう少しひねらないといけないと思う。 アイディアの練り直しが必要だ。 午後にはケルン大学のNattermanのセミナーがある。 ラフニング転移の話。

夕方は早めに仕事を切り上げて、6時前に帰宅する。 バスでテルアビブの中心へ行ってみようと思ったからだ。 イスラエルに到着した初日にベビーベッドを買った ショッピングセンターの近くでバスを降りた。 ここは市庁舎の近くでもあり、ラビン前首相が暗殺された ラビン広場でしばし時間を過ごす。 店は8時まで開店しているものが多いので、6時に一斉に 閉まるドイツよりもはるかに便利だ。 しかし、この日は特に買い物もせず、家の方に向かって 歩いていったら、間もなく家の近くまで来てしまったので、 そのまま歩いて帰ることにした。 それほど大きな街ではない。


ラビン広場

帰りに魚料理のレストランで夕食をとった。 イスラエルは地中海に面しているにもかかわらず、魚を食べる 機会が少ないようだ。


4月14日(水)

今日は比較的な孤独な一日であった。 午前中は昨日の方針で計算を進めるが、お昼前に 一旦手詰まりになる。 Andelmanは自宅で仕事をしているので、昼食も 一人で食べにいく。 大学内で肉料理が出るカフェテリアは一カ所しかなく、 ここのところはそこに一緒に行っていたのだが、はっきり 言って昼にしては重すぎる。 今日は同じ建物内のカフェテリアでサンドイッチを食べたが、 これでも結構ボリュームがあり十分であった。

昼食後は芝生の上に寝転がって、少しの間休憩した。 こんなことをするのは、いつ以来であろうか。 日なたは日差しがきついが、椰子の木の日陰は涼しい風が 吹いていて気持ちよい。 目の前に最近できたばかりのシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝所) がある。 見る方向によって曲率が変わる曲線をもった不思議な建築物だ。 学生達を観察する。 Tシャツにサングラス、軍服、キッパ(ユダヤ教徒が頭につける 丸い布)をつけた学生など、様々である。 イスラエルは国民皆兵制で、普通の場合、高校卒業後3年間 軍隊で訓練を受けなければいけない。 その後も、毎年数週間の兵役義務がある。 女性も2年間の兵役義務がある。 それで軍服を来た学生が学内にいるのである。 女性はパンツをはいている場合が多いのだが、皆びっくりする ほどスリムで、しかもかなりぴっちりしたものをはいているので、 なかなかセクシーだ。

夕方Andelmanと相談して、もっと簡単なモデルで計算して みることにした。


4月13日(火)

今日はホロコースト記念日である。 午前10時に街中にサイレンが鳴り響いた。 エルサレムでは大規模な式典が行われていたらしい。 大学でも正午から1時間程度の式典を行っていた。 国全体が、広島の原爆記念日であるような状態を 想像すればよいのかもしれない。 ちなみに原爆の犠牲者は10万人、ホロコーストの犠牲者 は600万人であるから、やはりそれ以上であろうか。 妻の話によると、テレビではホロコーストについて 証言する人々が一日中、放映されていたらしい。

Andelmanはルーマニア生まれであり、彼の親戚もホロコースト の犠牲になったらしい。 彼の奥さんはロシアの出身だが、同じような事情らしい。 このような事は、実は昔から聞きたかったのであるが、彼が どのようなメンタリティでホロコーストをとらえているかさっぱり 見当がつかなっかたので、恐くて聞けなかったのである。 彼の方から話してくれてよかった。 ドイツ人とも積極的に共同研究をしているAndelmanではあるが、 「この事を記憶しておくことは大切だ」と言っていたのが 印象に残った。

今日は落ち着いて仕事をすることができた。 アイディアの簡単なモデルを考え、夕方Andelmanと議論し、 その線で進めてみることにした。


4月12日(月)

ようやく朝から自室で、仕事をすることができる。 午前中はひたすら文献の収集や検討をする。

昼食中コンピュターの話題になる。 ロシアから移住してきたRoman Mintsがしきりに、どうやって日本語を 入力するのかを聞いてくる。 ヘブライ語の場合、文字は30文字程度しかないので問題はないが、 基本的に右から左に書くため、数字や英語と混ぜて表現 しようとするときに大きな問題が起こるとのこと。 確かにそうだ。

昼食後、Andelmanが日本の大学の生協に相当するような 店に連れていってくれる。 どうしても理解できなかったのは、やたらとたくさん 子供用の(大人用ではない)おもちゃや絵本などが売って いることである。 この店は一般の人が使うこともできるのだが、それにしても 少し異様な感じがした。

今日はセキュリティの話を少し。 スーパーでもそうであったが、大学に入る時も、門の所で 一人一人荷物検査をされる。 今日、しばらく自室から離れていて、帰宅しようと思って 部屋に戻ろうとすると、自分の部屋がある階に通じる扉に 鍵がかけられて完全に閉め出しを食ってしまった。 守衛さんに来てもらって事なきを得たが、結構厳しいので ある。 (最初からその鍵も渡しておいて欲しいよな。)


4月11日(日)

今日は通常の仕事日。

お昼前に、ロシアからイスラエルに移住してきて、現在テルアビブ 大学に勤めているKozlovがAndelmanの部屋に来てくれた。 彼とは1991年と1996年にベルリンで話をしたことがある。 長い間、Helfrichと一緒に仕事をしてきた人である。 4年前に移住してきたにもかかわらず、ヘブライ語はすでに ぺらぺらで、学生にはヘブライ語で講義をしているらしい。 近々、教授になるらしい。 ものすごい努力家だ。 3人で昼食をとった後に、しばらくAndelmanの最近の論文に ついて議論する。

午後になってようやく私の部屋が準備され、荷物なども移動して 落ち着くことができた。 詳しい事情はわからないが、この部屋は将来、Landau Institute の所長である(あった?)Khalatonikov(?、ハラトニコフ)と共有 するかもしれないとのこと。 これは大変なことだ。 なぜかロシアとイスラエルの関係は深い。 Diamantという学生が図書館に案内してくれて、コピーの仕方など を教えてくれる。 すべての雑誌が揃っているような気がする。 ようやく必要な物が、自分で入手できるようになった。

今日の感想:すばらしい環境の大学だ。 こんな大学、見たことがない。


4月10日(土)

午前中から午後にかけては、論文を読む。 研究のおよその方向性は見えてくる。

午後からは、恐らく一生忘れられないであろう、という時間 を過ごした。 3時過ぎにAndelman夫妻がアパートまで迎えに来てくれて、 テルアビブ市内や近郊をヤッフォを案内してくれた。 最初に海岸沿いを南下した。 おしゃれなホテルや各国の大使館が建ち並び、あたりは人の山 でごったがえしている。 青い地中海と建物の白い壁が、太陽の光で燦々と輝いている。 テルアビブで最初に開発が進められたネベ・ツェデク地区で 一旦車を止める。 このあたりには、20世紀初頭に建てられた家がそのまま 残されており、すぐ側の近代的なビルとの対比が不思議だ。

次にヤッフォに向かった。 ヤッフォは聖書に登場する古い港町で、ダビデ王のもと ヤッフォに荷揚げされた品物が、エルサレムに運ばれた とされている。 その後、十字軍やアラブの侵略を受け、19世紀後半までは 完全にアラブ人の街だった。 地中海を見下ろす丘の上に建つこの街には、現在多くの 芸術家が住んでいる。

丘の上のハピスガ公園の芝生に座り、しばらく時を過ごす。 地中海とテルアビブの街並みが一望でき、この美しさを言葉で 説明するのは難しい。 すべてがクリアだ。 海岸沿いをしばらく歩く。 釣りを楽しんでいる人がたくさんいる。 少し車で移動した後に、海沿いのカフェに入った。 イスラエルでは夕日が海に沈む。 これほど美しい夕日を私は見たことがない。 軽食をとってから、帰宅したのは8時半過ぎであった。 なんだかとんでもないごった煮のような状態で、見る物、聞くも のすべてが生まれて初めての経験であった。 今晩は興奮して眠れそうにない。


4月9日(金)

イスラエルでは金曜日が、日本の土曜日に相当する。 店はお昼過ぎに閉まり、安息日の土曜日に備える。 午前中に買い物を済ませる。 日本ではベーグルと呼ばれているゴマつきでドーナッツ形 の「ベーガレー」というパンも買う。 歯ごたえがあって、日本のものよりもおいしい。 大学にはまだ自分の部屋がないので、 午後にかけてアパートで昨日渡された論文を読む。

こちらに来てから、時差か疲れか、あるいは気合い不足のせいか、 昼食後に強烈に眠くなる。 今日も1時間ほど昼寝をした。

夕方の5時からハヤルコン公園を川沿いに散歩する。 広大な公園にはスポーツ施設もたくさんあり、人々がサッカーや バスケットボールなどに興じている。 テロや戦争のイメージとはかけ離れたものがある。 天気も良く、空気も乾燥しているので、とても気持ちが良い。 イスラエルの緯度は九州の緯度とほぼ同じであるが、日本より も日差しが強いような気がする。 地中海に面しているにもかかわらず、空気が乾燥しているせいか、 日陰は涼しい。

帰りにお茶でも飲もうと思ってレストランに入ったのだが、 6時半近かったので、そのまま食事をすることにした。 "Noodle with Chicken and Vegetables"なるものを注文したら、 日本の焼きそばに近いものが出てきたので、「これはイスラエルの 典型的な料理か?」と聞いてみると、「タイの料理だ」と言われた。 なんだ。ちなみにこのやりとりは英語です。


4月8日(木)

7時に起床して、徒歩で大学に行く。 途中、エレツ・イスラエル博物館のそばを通る。 ここはいずれ訪れてみたい場所だ。 回り道をしたせいもあって、40分程度かかってしまった。 毎日徒歩で通うのは無理と判断した。

私の部屋は改装中で今日はまだ使えない。 そのため、学生の部屋を使わせてもらった。 この学生の部屋というのが、どういうわけか屋上に設置されて いるコンテナなのだ。 コンテナといっても、もちろん電気やネットワークもつながて おり、エアコンも設置されている。 屋上からテルアビブ市内が一望でき、さらに地中海も見えて、 すがすがしい気分になった。

今日はコンピュータのセッティングを主に行った。 研究室には基本的にSGIのワークステーションが2台あるだけ である。 PINEというメイルソフトを初めて使ってみる。 さらに、私のノートパソコンも、IPアドレスをもらってネットワークに つながるようにした。 ホームページで日本のニュースも把握できる。 思ったほど日本とイスラエルの間の通信状況は悪くない。 最低限の用は足りる。 あれだけの時間を費やして、こんなに遠くまできたはずなのだが、 インターネットの世界では、日本にいるのとほとんど変わらない。 頭では分かっていても、不思議な気分だ。 昼食は同じ建物のカフェエリアでとる。 宗教的な理由から、肉が食べられる食堂は学内で一つしか ないらしい。

午後にはAndelmanが注文していた、デスクトップのパソコンが たまたま到着する。 ディスプレイは飯山電気の製品だ。 ネットワークのセッティングなどを手伝う。

その後、研究の方針の打ち合わせを行う。 帰りはバスを使う。 いくつも路線があるので、バス停の確認もする。 バスの運転手は運転が荒く、カーブでは振り飛ばされそうになる。


4月7日(水)

本日は「過越しの祭り(ペサハ)」の最終日で完全休日。 そもそも、「過越しの祭り」とはイスラエルの民がモーセに 率いられ、出エジプトをしたことを記念する。 これは、イスラエルの民族の自立を意味する。 初日と最終日は全休、他は半休。 全休の日にはバスなどの公共の交通機関も止まる。 イスラエルの祝祭日はユダヤ暦で決まっているため、西暦では 毎年変わる。

期間中イースト菌の入ったパンは禁止されているため、スーパーでは それらの製品の棚にはシートがかぶせられ、買えないようになって いる。 その代わりに、マツオットという小麦粉でできたクラッカーのような ものを食べる。 パンがなくては不便だろうということで、Andelmanが冷凍してあった パンを分けてくれていたので、とても重宝した。

朝、一時的に激しい雨が降る。 午前中はアパートで、論文の手直しをする。 夕方から近くのハヤルコン公園を散歩する。 広大な公園で市民の憩いの場になってる。 休日のせいもあって、子供連れや犬の散歩、ジョギングしている人 などをたくさん見かける。 途中で夕立が降ったので、雨宿りをしていたら、 「タクシーを呼びたいか?」と声をかけてくれた人がいた。 心身が再び充実してきた。 夕方、Andelmanから電話があり、昨晩からつながらなかったPPP 接続は、大学側のサーバーの問題であることが判明。 今晩から、再び使えるようになった。


4月6日(火)

イスラエルは明日まで「過越し」の期間で、およそ休みである。 ここ数日の疲れがたまっていたので、今日は休息しようと思って いたが、朝いきなり大家さんが部屋にきて、我々が日本から送った 荷物が税関でひっかかっていると連絡を受ける。 親切な大家さんは、車で税関へ連れて行ってくれ、私の代わり対応 してくれる。 どうやら荷物に入れたパソコンのフロッピードライブとCDドライブ が金属探知機にひっかかったらしい。 さらに、これらのものが新品であると税金を払う必要があるという。 しかし、こんなものどうやって使用済みであることを証明するのか? 一応、証明書を書いて、お金を払わずに荷物を受け取ることができる。 さほど時間もかからず、ラッキーであった。 帰りの車の中で、「この国では積極的に無罪であることを主張しない 限り、悪いことをしているとみなされる」と大家さんが言っていた のが印象に残った。

大学へのダイアルアップ接続ができるようになる。 これで日記も続けられるようになった。 と思っていたら午後から接続ができなくなる。 私の設定が悪いのか、接続先の状態の問題かわからない。

夜は日本から送った炊飯器で、イタリアのリゾット用の米を 炊いてみる。 結構うまく炊けた。

娘が風邪気味なので、外出は控える。


4月5日(月)

疲れていたにもかかわらず、6時に起床。 午前中は身の回りの整理を行う。 日本への電話も問題なくかかる。 午後は昨日と同じスーパーに行き、食料の補充をする。 スーパーに入店する際に、手荷物の中身をチェックされる。

夕方になって、Andelmanが車で迎えにきてくれて、 テルアビブ大学を案内してもらう。 イスラエルで最大規模を誇るだけあって、とても立派な大学である。 これについては、また書きましょう。 私のアカウントを開設してもらい、細々をした下準備を行う。

今晩はAndelmanの自宅での夕食に招待されている。 私は一旦、バスでアパートに帰宅し、再び彼が我々3人を 車でピックアップしてくれる。 マンション内の彼の部屋は大変豪華で、しかもインテリアなど が超ハイセンスでびっくりした。 外国では大学教授がこんなにリッチな生活ができるのかと思うと、 考えさせられるものがあった。 思わず自分の大学や公務員宿舎と比較して、少々情けない気分に なる。 Andelmanの家族は奥さんと息子と娘の4人。 特に10歳の娘さんが、我々の子供に興味を示し、ヘブライ語の 絵本を読んでくれたりした。 おいしい料理や楽しい会話など、心のこもったもてなしをうけ、 とても感激する。 11時過ぎに帰宅。


4月4日(日)

朝5時に起床。 体のリズムがまだ日本時間なので、こんな時間に目が覚めて しまう。 7時にホテル出発。 これからテルアビブ行きの飛行機に乗るまでが大変であった。 まず、第1ターミーナルと第2ターミナルに行くシャトルバスを 乗り間違え、誤って第1ターミーナルで降りてしまう。 第2ターミナルに着いてからも、チェックインするホール(Aから Fまである)がどこかわかなない。 係の人に聞いても、皆違うことばかり言う。 結局わかったことは、テルアビブ行きの便は特別なセキュリティ チェックがあるため、他のカウンターと全く違う場所で行って おり、係員も正確に把握していないのだ。 1時間半ほど走り回って、ようやくたどりついたが、非常につかれた。 時間の余裕があって良かった。

パリからテルアビブまでは4時間半のフライト。 機内は家族連れなどで、非常に混んでいた。 娘用の席は確保できず、一度大泣きをして顰蹙をかったが、 これもなんとかだましだましで過ごした。 後ろの席のお父さんが我々に興味を示して、いろいろと話かけて くれる。 子供がいると会話をするきっかけができやすい。 地中海上空を飛行し、機内からイスラエルの海岸線が見えたときには、 非常に感激した。 ようやくイスラエルをこの目で見ることができたのだ。 無事に着陸すると、機内で拍手がおこる。 これは、中東の習慣である。 機体の外に出ると、太陽がぎらぎらと照りつけてくる。 明るい国だ!

荷物を受け取り、ドルをシェケルに換金し、外に出たが、 Andelmanがいない。 いきなりトラブルかと思ったが、ほどなく現れて再会を喜ぶ。 すぐに彼の車で我々の住むアパートに連れていってもらい、 5時過ぎに最終目的地に到着。 とてもきれいなアパートで、家具もすべて揃っているので、 全く問題はない。 ただ、子供の寝るベッドがないので、Andelmanと一緒に買いに出る ことにした。

まずスーパーでとりあえずの食料品を買う。 思ったより、ほとんどの表示がヘブライ語なので、もっと真面目 に勉強しておくべきであったと後悔する。 イスラエルはこの期間「過越しの祭り」で、日本のお盆のような 状態である。 ショッピングセンターでベッドも入手し、食事の場所を探す。 途中、Rabin元首相が暗殺された場所を通る。 現在は"Rabin square"と呼ばれているその場所は、日本にいる時から テレビで見たことがあったので、今まさに私がそこにいるという現実 に対して思わず身震いした。

「シュワルマ」という羊のグリルを食べる。 店先で円筒状の肉の固まりが回転していて、注文すると 肉をナイフでそぎ落としてくれる。 これを野菜と一緒にピタ(パンのようなもの)とともに食べる。

アパートに戻ってから、ベッドを組立ようとしたが、説明書が ヘブライ語なので、Andelmanが手伝ってくれる。 彼が帰ったのが、10時過ぎ。 この日も長い一日であった。


4月3日(土)[出国日]

8時30分にホテルを出発して、送迎バスで関空へ行く。 とても良い天気で、橋の両側の海がきれい。 11時に無事、関空から離陸。 約12時間のフライト。 特別な事はなかったが、やはり12時間は長い。 今までボーイングしか乗ったことがなかったが、今回は エアバスで、客室内装備がボーイングより優れているのでは ないかと思った。 娘はちゃんと眠れないので、時々くずったが、だましだましで なんとかパリに到着。 空港近くのホテルにシャトルバスで移動。 近代的で気持ちの良いホテルだ。 疲れたが、とりあえず休めるので気は楽である。 長い一日であった。


4月2日(金)[出発日]

まず予約しておいたレンタカーを取りに行く。 家中の電気、水道、ガスを何度も点検して、11時半過ぎに 家を出発する。 福岡地方は悪天候であったため、ほとんどすべての便が1時間 程度遅れていた。 我々の関空行のJALもそうであろう、とたかをくくってのんびり 昼食を食べて、一応、出発予定時刻にゲートに行ったら、すでに最終 の搭乗案内をしていてびっくり。 我々の便は遅れていなかったのだ。

娘はちゃんと昼寝ができないために、機内で落ち着かず、おおいに ぐずる。 この調子では明日はどうなるのだろうか? 関空からホテルに電話して、迎えにきてもらい、無事に初日の 目的地に到着する。 部屋から外線でパソコンをつなごうとするがうまくいかない。 仕方なく、公衆電話からメイルをチェックする。 晩は天気も悪いので、ホテルで食事をとる。

今夜は大阪で最後の「探偵ナイトスクープ」が見れるので、うれしい。 九州では1ヶ月遅れなのだ。


4月1日(木)[出発まで1日]

5月17日に行われるイスラエル首相公選の立候補が締め切られた。 事実上、現職のネタニアフ首相とバラク氏の一騎打ちで、この 二人の決戦投票になる見通しらしい。 バラク氏は先日の映画「TSAHAL」でもインタビューを 受けていたな。 東京都知事選も見物だが、この選挙は世界中が注目している。 前回の投票率は90%を超えた。 都知事選には民族の運命を決めるような真剣さがない。

出発前日にはできるだけ何もしないで済むように準備して きたつもりであったが、やはり色々と忙しかった。 4月になったので、午前中は自動車税を納める。 手荷物のパッキングを行い、最終的な確認を行う。 午後は、論文や本を詰めた最後の荷物を発送する。

神戸大の某助教授から、彼が福岡に帰省している間、わざわざ 福岡空港まで見送りに来て下さるというメイルをいただく。 彼は我々が4月3日に出発すると思っていたのだが、関西空港に 前泊するため明日2日に福岡を出発することをお知らせして、 丁重にお断りする。 この方には、私の不在中の非常勤講師もお願いしてあり、 改めて色々な方のご協力で海外出張が実現することを思う。

さて、いよいよ明日自宅を出発し、とりあえず関西空港に向かう。 しばらく日記も更新できないかも知れません。 これまで辛抱強く読んでくれた方々に、改めてお礼を申し上げます。 再び日記が書けるようになるまで、忘れないでいただければ幸いです。 ようやくこの日記も面白くなるかも知れません。 それでは、行って参ります。


過去の日記:1999年 3月 2月 1月