イスラエルの地図 イスラエルの地図

不安なイスラエル日記(12月)


12月31日(金)

イスラエルで2000年を迎えるということはきっと特別なことに 違いないと思っていたのだが、実はその全く正反対であることが わかってきた。 そもそも日本でイメージする年末年始とは全く異なるのだ。

ヨーロッパでは元日が祝日になるが、イスラエルでは元日も祝日では ない。 以前にも書いたように、たまたま今回は安息日と重なっているだけ。 世界各地では年明けとともに盛大に花火を打ち上げるなどして、 お祝いムード一色のようだが、保守的なエルサレムなどでは、 このようなセレモニーはむしろ安息日を冒とくするものとして、 一切予定されていない。

一方で西岸地区に属するベツレヘム(イエス生誕の地とされる)では、 2000発の花火が準備されている。 テルアビブでもお祭り騒ぎは行われるようだ。


12月30日(木)

娘が二日前から咳をし始め、親子とも夜中に熟睡できない。 今朝になって熱が上がってきたので、大事をとって医者に 連れていった。 最近アパート内で流行していたので嫌な予感がしていたのだが、 やはりインフルエンザのようだ。 丁度一年前の悪夢が再びよみがえる。

処方された薬を薬局で買ってから研究所へ行く。 一日中、Milnerの論文のフォロー。 最終結果の一歩手前までこぎ着けるものの、最後のところで 肝心な点がわからず、目的は達成できず。

日本人家族が約2年間の滞在を終えて、今日の深夜に帰国のために 出発する。 夜、最後のご挨拶に伺う。 数少ない日本人である上に、ご主人がお医者さんということで、 こちらの家族が病気の時にはいつも助けてもらい、本当に色々な 意味でお世話になった。 心よりお礼を申し上げたい。


12月29日(水)

覚悟を決めてMilnerとWittenの論文の計算をフォローしてみる ことにする。 ミスプリ程度だとは思うが、最終的な結果が間違っていることは確か なので、それを修正することが目的である。 数日はかかるだろうが、それでも解決するかどうかはわからない。

さて午後は"Mini Symposium on Soft Matter"ということで、 de GennesとBrochardの講演会。 その他にはヴァイツマンからRony Granel、Michael Elbaum、 Elisha Mosesらも講演を行った。

de Gennesは高分子薄膜のガラス転移について話していた。 少し老けたお見受けしたが(今はおそらく67歳のはず)、相変わらず 新しい問題にチャレンジしていく姿勢には大いに刺激を受けた。 どういう問題であっても彼独特のスタイルで料理されてしまう ところがすごい。

物理の世界では最高の栄誉を手にした人ではあるが、未知の 問題に対しては非常に謙虚であり、自分の理論ですべてがわかる というようなことは決して言わない。 あたかも子供が遊ぶような純粋さで物理を楽しんでいる雰囲気 が伝わり、こちらも楽しい気分になった。

今やde Gennesの正妻でもあるBrochardも非常にセンスの良い 物理学者で、膜の破裂のダイナミクスという野心的な内容であった。 この人はそもそも実験家であるのだが、理論的にもすばらしい センスを持っている人だと思う。


12月28日(火)

学生のレポートを10人分ほど採点した。 どれ一つとして同じレポートはなく、すべて自分で取り組んだ 形跡がうかがえる。 実際の出来はともかくとしても、安直に単位をとるためではなく、 自分の勉強のためであるという自覚があるようだ。

ヴァイツマンの大学院生は、イスラエルの中でも最も優秀な部類に 属するはずだ。 もしかしたらこの中から研究者が育つのかと思うと、非常に楽しみ である。

そう言えばAndelmanとの電話で、たまたま博士を取得するために必要な 論文の数のに話になり、彼の場合は最低でも5篇は必要だと言っていた。 これにはさすがに驚いたが、彼のもとで過去に学位を取った学生は 実際に8、9篇論文を書いたそうだ。 恐らく彼の基準は、将来良い研究環境でポスドクを経験し、理論物理の 研究者として生き残るための必要条件なのだと思う。

日本の課程博士で、論文を5篇も課す大学は私の知る範囲ではない。 そうでなくても日本では大学院生の数が増えて全体のレベルが下がって いると言われているのに、これではますます博士の質の差が開いてしまう。 日本の中でいくら博士が増えても、研究の世界では国際競争力がなければ 何の意味もない。

大学院生の問題は早く対応しないと、後でとんでもないことになる。 まさにある物理学者が物理学会誌に投稿していたように、 「大学院生の2000年問題」である。


12月27日(月)

秘書室で秘書の人と話していたら、机の上に来年の4月にイスラエル で開かれる研究会の案内が置いてあるのが目に止まった。 S. Alexanderという物理学者を記念する研究会だというので、 詳しい事情を聞いてみると、何とAlexanderは一年前に 交通事故で死亡したとのこと。 これには少なからず驚いた。

たまたま今勉強している高分子ブラシの理論では先駆的な仕事を している研究者であり、その他にもいくつか重要な論文を目にしている。 確か昨年6月のイタリアでのGordon会議で、一度だけお見かけしたと思う。 ヴァイツマンに所属している人だったと記憶していたが、こちらに きて見かけないのは、単に引退したからだと思っていた。 秘書の説明によると、Alexanderはヘブライ大学を退官した後、 ここのPhysical Chemistryのセクションに所属していた。

奥さんの運転する車が停止しているトラックにぶつかりそうになり、 慌ててハンドルを左に切ったが、時遅く車体の右側がつぶれてしまった らしい。 奥さんは無事で、右側の助手席に座っていたAlexanderは即死だった。

改めて交通事故の恐ろしさを認識する。 それとともにランダウのこともふと思い出した。


12月26日(日)

日本で12月のこの時期になると、年の瀬も押し迫ってなんとなく 落ち着かない気分になるものだが、イスラエルでは全く普段と 変わりがないので、そのギャップに少しとまどう。 研究所でも29日にはde Gennesを囲んでのミニシンポジウム、 1月2日には化学科の発表会など通常の予定が組まれている。 Safranも忙しそうだ。

特に変わったことはなし。 論文をいじったり、高分子ブラシの理論を勉強する。

最近、新聞にあまり目を通していなかったので、心を入れかえて もう少し丹念に読むことにする。


12月25日(土)

安息日なのでのんびりと過ごす。 一日中天気が悪く、時たま雨が降っている。

最近、この日記へのアクセスが減ってきているのが何故かと考えてみる。 確かに自分で読んでも内容が暗いし面白くない。 でも年末ということで、日本の皆さんも私の日記を読むほど暇ではない のだ、と都合良く解釈することにしましょう。

ふと考えてみると、どうしてクリスマスとサンタクロースが関係ある のかよく分からなかった。


12月24日(金)

キリスト教を信じていない日本人が、クリスマスで浮かれるのは いかにも日本的なのかも知れない。 何となくムードでクリスマスプレゼントを交換したり、クリスマス ケーキを買ったりする人は、どうしてそんなことをするのか一度くらい 考えてみるのも悪くないだろう。 2000年だって日本人が大騒ぎする必要はない。 来年は単に平成12年であり特別な年ではないはずだ。

西欧人が日本のクリスマスを見たら、不思議に感じるだろう。 「この国の人は何を基準に生きているの? 天皇とイエスのどちらが大切なのかしら?」 これらの例から、日本人が軽薄であると結論付けるのは簡単な ことである。

しかし、私は日本人のこういう特質を肯定的に捉えたい。 昔から日本人は「おいしいとこ取り」にかけては大変優れて いるのであり、それが日本固有の柔軟な生活や文化を生み出して きた。 漢字と仮名の絶妙の組合せなどは、日本人にしかできない技であり、 世界に誇るべき文化である。 天皇とイエスの使い分けも似たようなものだ。

今後も日本人が生き残るためには、「おいしいとこ取り」を どんどん追求すればよろしい。 西欧人や一部の日本人は「おいしいとこ取り」にはオリジナリティ が無いといって批判するが、そんなことは気にする必要はない。 国民性などはそう簡単に変化するはずがないのだ。

夕食は、日本人3家族、中国人1家族が集まってお別れパーティ。 やっぱり皆さん「メリークリスマス」と言って乾杯したのでありました。

イエス生誕の地とされるベツレヘムには世界中から5万人の巡礼客が 見込まれている。 なお、ベツレヘムはパレスチナ自治区に属する。


12月23日(木)

たまたまRony Granekと昼食が一緒になり、イスラエルと日本での 年末年始やクリスマスの過ごし方の話をする。 ほとんどのイスラエル人にとってクリスマスは関係なく、 元日はたまたまが安息日と重なっているので休みになるだけだ。 ただし、国内のクリスチャンはクリスマスの期間に休暇をとって、 ヨーロッパに出かける人もいるらしい。

夕方にいつもの買物に出かける。 日本では2000年問題対策として、数日間用の必需品の備蓄が 呼びかけられているらしいので、意識的にいつもよりも多めに 食料品を買い込む。

さらに本屋でイスラエルの写真集を3冊購入。 自分が一度訪れた場所の写真を眺めるのは楽しいし、これだけの 画像はとても自分のカメラやビデオでは収めきれない。 そのうちの1冊は"Israel from the Area"というタイトルで、 イスラエル各地の航空写真を集めたものだ。 車で運転した道や歩いた道を探し出しては、少しばかり懐かしい 思い出に浸る。 イスラエルには狭い国土の中ですべての種類の地形が存在すると 言われているが、まさにその通りだと思う。

ここのところ遠藤周作の「死海のほとり」(新潮文庫)を1日1章ずつ 読み進めてきて本日読了。 以前に読んだ「イエスの生涯」と「キリストの誕生」では著者の キリスト教に対する考え方が直接的に表現されているので、少々 うさん臭く感じる部分もあった。 それに対して「死海のほとり」では、主人公と著者がそのまま 重なっているにもかかわらず、全体として小説の形式をとっている ため、著者の表現が一段高いレベルに昇華されていると感じた。

これは音楽でも同じことで、よく歌詞の内容で何かを直接的に主張 しようとする人がいるが、それは邪道であり、あくまでも音そのもので 表現しなければ意味がない。 本来、音自体には何の意味はなく、すべては聞き手の印象にまかされて いる。 同じ意味で「死海のほとり」は私にも何かしら考えさせられるものを 与えてくれたような気がする。 芸術というのはダイレクトではだめで、一旦すべてを押え込んでからも なおにじみ出てくるべきものであろう。

少し記述の古い部分もあるが、これからイスラエルを訪れる人には お薦めの一冊である。


12月22日(水)

同室の王茜はiMacを使っているのだが、今朝一度シャットダウンした 後に立ち上がらなくなったと青い顔をしている。 私もしばらく一緒にあちこちキーを押してみるが、動き出す気配は 全くなし。 私が「たぶんハードディスクのクラッシュだろう」と言うと彼女は もう顔面蒼泊。 一応、念のためにと思って本体の後ろ側を見たら、電源コードが はずれていた。

Safranの講義。 界面間の静電相互作用。 自由エネルギーの最小化からPoisson-Boltzmann方程式を導き、 2枚の帯電板間の電荷分布を決める。 それから板間の相互作用が求まる。 彼の教科書通りではあるのだが、非常にすっきりとした話の進め方で、 私も目からうろこが落ちる思いであった。 自分も日本でいつかこういう講義をしてみたいという気持ちになった。

それ以外は一日中、論文の手直し。 ようやく最終的な形が整ってきたのであと一歩だ(と思う)。


12月21日(火)

珍しく学生のDimaから一緒に食事に行こうと誘われる。 彼はいつも自宅に戻って昼食をとると聞いていたので、今まで 一緒に食事に行ったことがなかったのだ。

Dimaは一人っ子で、4年前に両親と一緒にウクライナのオデッサ からイスラエルに移住してきた。 地図を開いてみると黒海に面した土地で、気候の良い所らしい。 (ちなみにウクライナは1991年に独立し、あのチェルノブイリがある 国だ。 原子力発電所事故が起こった当時はどうしてヨーロッパに影響が あるのか今一つぴんとこなかったが、今見てみるとまさにヨーロッパの すぐ隣なのね。)

お父さんはかなり高齢ですでに引退されており、 お母さんはウクライナではお医者さんであった。 最近、お母さんがイスラエルでも医療活動ができるように、 レホボト郊外のカプラン病院で研修を受けているとのこと。 家で昼食を作ってくれる人がいなくなったので、近頃は研究所で 食べていると話してくれた。

Dimaは非常に礼儀正しくて、気持ちの細やかなな青年だ。 研究以外の話を色々としたが、最近ようやく自動車の免許を取得した らしい。 イスラエルで外国人が免許を取得するのは難しいと聞いていたので 色々尋ねてみたら、言いたくなさそうに、「期間は半年、費用は 10万円かかった」と教えてくれた。 日本よりははるかに安い。


12月20日(月)

午前中はヴァイツマン研究所のItamar Procacciaのセミナーがある。 DLAなどのフラクタル構造の成長をconformal mappingを使って表現 しようとしているらしいが、さっぱり分からない内容だった。 そもそも聞き手が分かるような工夫が何もなされていないし、 喋り方も非常に威圧的で、久しぶりに不愉快なセミナーだった。

内容が理解できた人はいなかったと思うが、最後に司会の Jakob Kleinが「要するにあなたの研究の動機はかくかくしかじかなのか」 という質問をすると、そんな下らない質問をするのかと言わんばかりに 鼻で笑っていた。 いかんですよ。 ちょうど昨日の日記にも書いたように、研究の内容は広く専門家以外 にも理解してもらえることが大切だと思う。 Procacciaがどんな人か楽しみにしていただけに残念だった。

午後は4回目のrecitation。 微分幾何の初歩で、曲率などについて説明する。 しかしどうも今日は私のテンションがローで、切れ味の悪い講義をして しまった。 途中で一度学生に突っ込まれて立往生するなど、みっともないところも さらけ出してしまった。 さすがに軽いダメージが残る。

学生が将来微分幾何を使う時になると、「そう言えばなんだか間抜けな 日本人が教えていたな」などと思い出すことになるのだろうか?


12月19日(日)

朝起きるといきなり日本人の奥さんから電話があり、 「そちらも断水してますか?」 水道の蛇口をひねっても水はちょろちょろ。 またまた予告なしの断水である。 断水はたいてい研究所と連動していることが多いので、 糞便のたまったトイレを想像して嫌な気分になる。 それでも研究所では水が使えたので少しほっとする。

MilnerとWittenの昔の論文を読んでいると、ほとんどの式が フォローできないので非常にいらいらする。 こういう論文があちこちで引用されているのが不思議だ。 これだけ論文や研究者の数が増えてしまった現在では、他人が フォローできる研究をするということは非常に大切だと思う。 しかも特別な手法をもつごく限られた一部の人しか、チェックできな のでは意味がない。 どんなに難解な内容であっても、きちんと追えるように書くことは 必ずできるはずだ。

自分がそれほど立派な論文を書いているわけではないので、偉そうな ことは言えないのだが、少なくともフォローできない論文に対しては、 論文の方が悪いと思えるようになってきた。


12月18日(土)

ドラえもんには、我々の帰国後に引き取ってもらう品物が いくつかあるため、午前中はその打合せをする。 どれもこれも有効利用してくれそうで、我々も譲り甲斐がある。 11時頃にタクシーで我が家を後にした。

ドラえもんを見送りに外に出ると、昨晩食事をした日本人家族が 2家族で一緒に死海に向けて出発するところだった。 今日はゆっくり休息でもしようかと思っていたのだが、天気も良いし、 観光モードの彼らを見ていると、私もつい外出したくなってきた。 あまり動きたがらない妻を説得して、昼食後に再びエルサレムまで ドライブすることにした。

昨晩と同じ場所に車を停め、そこから少し散歩をする。 このあたりは新市街の中心地で、シオン広場を通り ベンイェフダというショッピング街を歩く。 と言っても今日はシャバットで開いている店が一軒もない。 人もまばらである。 あわよくば土産ものでも探そうかと思っていたので、少し 期待はずれであった。

歩いた道を引き返して、カフェで休憩。 レストランとカフェしか開いていないので、どこもたくさんの 客で賑わっている。 カプチーノを注文したら、巨大なカップになみなみとつがれていて、 半分近く残してしまった。 でも味は良かった。 今日は欲張らないでそのまま帰宅する。 次回はいつか平日に訪れて、目星をつけておいた店を覗いてみよう。

Grover Washington, Jr.死去のニュースにびっくり。 彼は売れてしまったためにジャズができず、気の毒であった。


12月17日(金)

ヴァイツマン研究所に先月新しい日本人家族が来られ、今までおられた 別の日本人家族が入れ替わりで今月末に帰国される。 そのため送別会を兼ねて、エルサレムで食事をすることにした。 ドラえもんにもわざわざベエルシェバから来て参加してもらったので、 大人7人子供6人の大日本人グループとなった。

レンタカーを2台連ねて、レホボトを4時前に出発。 高速道路の両脇の山々が、オレンジ色の夕陽に照らされて幻想的な 雰囲気を醸し出している。 エルサレムに到着してからは、旧市街の北側を通り抜け、オリーブ山の 展望台に行ってみることにする。 このあたりは東エルサレムに属するのでアラブ人の店や家をたくさん 見かける。

今日はシャバットなので車が少なく、我々には有難い。 少し道に迷いながらも無事に目的地に到着すると、まさに夕闇に包まれ つつあるエルサレムが一望できた。 その中でも、金色の岩のドームはひときわ目だって美しい。 皆で歓声をあげながら写真撮影。


岩のドーム

それから旧市街の城壁の外側をぐるっと回って、独立公園のそばに 車を駐車する。 本日のお目当ては、帰国されるお医者さんお薦めの韓国料理店 である。 日本で韓国料理と言うと、焼肉、ビビンバ、キムチのイメージ だったのだが、ちゃんとしたコースをいただいたのは今回が始めて かも知れない。 味付けがなかなか上品で、やはり日本食の親戚という感じがする。 安心感も手伝って大変満足。

食事も後半になると子供達が協同的融解現象を示し始め、8時過ぎに お開きとする。 久しぶりに家族以外の日本人といろいろな話しができて、とても 良い気分転換となった。 ドラえもんは我が家に宿泊。


12月16日(木)

この日記を書き始めたのは昨年の12月16日から なので、今日でちょうど丸一年続いたことになる。 思えば日記を書き始めた翌日からとんでもないことが起こったのであった。 1年を振り返ってみると、自分でもよくここまで続けられたと思うのだが、 これはやはり読んでくれる人がいてくれたからであり、読者には心から 感謝したい。

この日記も実はとんでもないことになりそうで、なんと「物性研究」誌 から「イスラエル滞在記」として50ページも書くように原稿依頼がきて しまったのである。 推薦してくれた人には全く頭が上がらないのだが、これって普通に載っている 修論より長いじゃーん! しかも真面目な物理の記事の合間に、こんな日記の一部が掲載されて しまっては、あちこちで大顰蹙を買うのではないかと今から心配である。

それでもこうなったからには、とりあえずこれまで通りなぐり書きを続けて おいて、帰国後に再構築を試みることにしよう。 その段階で、もう少し深いものにしなければいけない。

この日記もあと2ヵ月半で終りである。 よろしければ最後までお付き合い願いたい。


12月15日(水)

Safranに新しい研究についての着想を聞いてもらった。 それはそれで理解してくれたが、その前に議論の仮定となる事実が 実験で成り立っているのかどうか確かめるように指摘された。 当り前のことなのだが、ともすれば私はできることを先に考えてしまう ところがあり、その意味で反省させられた。

午後はSafanの講義。ファン・デル・ワールス力について。 よく考えてみたらは、私はこの力について講義できちんと習った記憶が 一度もない。 こういう普遍的な力は物性の範囲でもっと強調して教えるべきだと思う。 ところで、なんで「ファン・デル・ワールス力」と呼ぶのか、 歴史的なことを知っている人がいたら教えて下さい。

講義の直後には、先日書いたIsraelachviliの"Haim Weizmann Lecture"。 タイトルは"The Subtlety of Intermolecular Forces in Biological and Other Systems"。 Jacob Kleinが司会をしていた。 IsraelachviliとKleinはともに、Cavendish LaboratoryでTaborの指導 を受けており、謂わば同じ釜の飯を食った仲である。 (Taborは「トライポロジー」という言葉を作った人である。)

内容は一般向けであったため、私にとっては少々退屈であった。 昨日の疲れもあって、後半は寝てしまった。


12月14日(火)

朝8時過ぎにレホボト発の汽車に乗りテルアビブへ行く。 9時からAndelmanと論文の打合せをする予定なのだが、普段使うバスでは 道路が混んで時間がかかると思い、汽車とタクシーを使っていくことに した。 バスで往復2時間以上も揺られていると腰も痛くなってしまうのと比べると、 汽車は本数が少ない以外は極めて快適だ。 座席は飛行機のファーストクラス並なのだ。

今日は珍しく天気が悪く、雨が降っている。 朝のテルアビブ駅では、たくさんの若い兵士を見かける。 こういう兵士は家から通勤しているのだろうか。

朝9時から夜の7時まで、論文の打合せをしたので大変疲れた。 Andelmanも忙しい人で、途中で何度も訪問者があったり電話がかかって くるので、なかなか落ち着いて仕事を進められない。 まあ、いつものことなのだが、そのたびに集中力がそがれるので、 余計に精神的疲労が増した。

Ulrich家族がドイツに帰国。


12月13日(月)

テルアビブ大学に滞在中のStjepan Marceljaのセミナーが午前中にある。 水和力が引力になり得ることを主張しているのだが、どういう根拠なのか あまり理解できなかった。 少し古いタイプの理論を使っているのが私には余計に分かりにくかった。

午後はSafran、Tenne、Schwarzと私が、我々の最近の研究をIsraelachvili に聞いてもらうミーティングがあった。 最初にTenneが実験の説明をし、それからSchwarzが理論的な話題を提供した。 皆さん、Israelachviliのコメントを一言も聞き逃すまいとして、真剣に メモをとっている。

Israelachviliは分子間力の教科書でも有名な人である。 この教科書は日本語にも翻訳されており、その翻訳本のカバーには 彼の写真も載っている。 その写真では、なんとも野性的なイメージが強かったのだが、実際に会って みると普通のおじさんという雰囲気で、とても意外であった。 最初はどうしても違う人としか思えなかった。 写真はもっと若い時のものなのだろう。

Israelachviliは今週の15、16日に予定されている、"Haim Weizmann Lecture"の講師として招待されている。 Haim Weizmannは初代大統領の名前で、毎年一回、彼の名前にちなんだ一般向け 講演会が開かれている。 詳しくは知らないが、「ファラデー講演会」のようなものだと思う。

Israelachviliは滞在中に、研究所内の人と会う予定がびっしりと詰まっている。 我々のミーティングは1時間しかなく、しかもSchwarzの話は最後の方で 時間が足りなくなってしまった。 そのため議論する時間も少なく、さほど重要なコメントがもらえなかったのは 残念であった。


12月12日(日)

Safranの講義のレポート問題をrecitationで扱わなければいけない ので、すでに学生から提出されたレポートなどをながめながら、自分でも 解いてみることにする。 中には結構難しい問題も含まれており、学生も解けていないのだが、 自分でも分からないものがあったりして、結局、丸一日時間を費して しまった。

それでも思ったより学生がよく問題を解いていたのには驚かされた。 何よりも好感をもったのは、決してどのレポートも他人のものを 写していないということ。 たとえ、間違った解答であっても、自分で思考した形跡がうかがえる。 私が日本の大学でレポートを集めても、異なる解答は50人中2、3種類 しかない。 勘違いしている学生が多すぎる。


12月11日(土)

昨日入場できなかった、ベイト・グヴリンを再び訪れる。 たくさんの洞窟が集まっているこの場所は、国立公園に指定されて いる。 水の侵食によって形成された自然の洞窟もあるが、それ以外のものは 4世紀頃フェニキア人によって採掘された跡だと考えられている。 ガイドブックには、スタローンの映画「ランボー」の舞台にもなった と書かれている。

公園内には幾つかチェックポイントがあり、そこに車を停めてハイ キングやピクニックができるようになっている。 最初に小さな洞窟を二つ見てから、別の場所に移動する。 こちらには大きな洞窟が二つあり、片方ではコンサートをやって いたが、ほとんど終了間際でしかも有料だったので、そちらには行かな かった。

もう一方の洞窟に入ると、まずその巨大さに驚かされる。 中では入口に置かれているヘルメットをかぶらなければいけない。 事実、洞窟内で立っていると上から砂が頭に落ちてくる。 崩れたりはしないのかな、と少し心配になる。 薄暗い中でビデオや写真を撮る。 イスラエル在住の人であれば、一度は訪れてみる価値のあるところ だろう。


12月10日(金)

お昼前に家を出て、レンタカーを借りる。 レホボトの近くにあるギバット・ブレナーというキブツにある 本屋に行く。 イスラエルは一般的に本の値段が安いが、ここの本屋は特に 安いとヘブライ語の先生が教えてくれた。 残念ながらヘブライ語の本がほとんどなので、子供用の絵本を 2冊ほど買うことにした。

それからヘブロンの近くにあるベイト・グヴリンという国立公園を 目指して車を走らせる。 西岸地区との境の少し手前に位置する。 12月でも日中はサングラスが必要なくらいの日差しだ。 先日アラブ人の通行が許可された、ガザ地区とヘブロンを結ぶ 道路(safe road)を運転したので少し緊張した。 トランクをたくさん積んだ黄色いアラブのタクシーと何度もすれちがう。 (あれは一体何を運んでいるのだろう?)

入口でお金を払おうとすると、あいにくちょうど閉まるところだった。 仕方なくパンフレットだけもらって引き返す。 まだ3時前だったので、そこからテルアビブまでドライブする。 と言っても普通の店が開いているわけではないので、いつもいくオペラ タワーでCDの物色し、アラブのポップスを2枚入手する。 ピザハットで食事をして帰宅。


12月9日(木)

ここのところ気分的に新聞を読む気がしなくて、すっかり イスラエルのニュースから遠ざかっていたが、イスラエルは 今外交的に重要な局面に立たされている。 シリアとの和平交渉が約4年ぶりに再会されることになったからだ。

バラクとシリアの外務大臣が、来週ワシントンで会談をすることに なった、とクリントンが昨日発表した。 丁度オルブライトが中東を訪れ、シリアのアサド大統領や バラクと会談をしているタイミングを狙っての発表である。 クリントンは「真に歴史的な機会」と自我自賛である。

地理的に国境を接していながら、国交がないというのは確かに寒い ものがある。 (レバノンなどは国交がないどころか、戦争状態と言ってもよいだろう。) アサドはゴラン高原の返還が交渉再会の条件と以前から主張していたため、 なかなか交渉までこぎつけるのが難しかった。 どうしてここにきて、交渉が再会されることになったのかという背景は よくわからないが、バラクはいかなる条件にもまだ応じてはいない と主張している。

しかし、恐らくバラクはゴラン高原の少なくとも一部返還には応じる つもりがあるのだと思う。 土地を失っても、国交を正常化させる必要があるという判断をするはずだ。 しかも、シリアはイスラエルと戦争中のレバノンにも強い影響力がある ため、これからの交渉を成功させることはイスラエルにとって非常に大きな 意味をもつ。

我々は和平交渉というと、ついお互いに理解し合って仲良くするような イメージで捉えてしまうが、決してそういう生ぬるいものではないことを 認識する必要がある。 以前の日記にも書いたように、お互いにとってこれ以外に手がない苦渋の 選択なのだ。


12月8日(水)

一晩考えて、こちらで思いついたことをRony Granekに話す。 大して役立たなかったと思うが、どうでもよいことを含めて いろいろと話しができるのはとてもよい。

昼食はRonyとUlrichと一緒に行く。 我々の分野のドイツ人研究者で、誰が基本的に職を探しているか というシビアな話題になる。 Ulrichの話によると、ドイツは相当な就職難らしい。 もちろん本人にとっても他人事ではないはずだ。

Safranの講義があり、内容はwetting(濡れ)。 接触角のYoungの法則、wetting transitionの微視的モデル、 接触線のゆらぎなど。 実はcomplete wettingを「接触角が0度」と定義する場合と、 「wetting層の厚さが無限大」と定義する場合の二通りがあり、 非常にまぎらわしい。 このあたりをすっきりと統一的に説明していたのには感心した。

学生にとっても初めて聞く内容のようで、結構興味を示していた。 途中でSafranが「もっとwettingについて話した方がよいか?」 と学生に尋ねると、皆一斉にうなずいていた。 これくらいだと、やりがいがあるよね。 wettingは誰でも身近で経験するので、興味を引きやすいのだろう。

講義の後に、「Youngの法則」のYoungは、あの光の干渉実験で有名な Youngと同一人物であることをSafranに話す。 これは以外と知られていない。


12月7日(火)

研究所内で生物物理の研究会が開催されている。 ヴァイツマン研究所の物理学科のJoel Stavansの講演を聞いてみること にした。 ベシクルを含む系に特別な高分子を添加すると、膜がさまざまな不安的性を 示すという内容。

私はここで化学科に所属しているため、物理学科のスタッフの名前と顔が なかなか一致しない。 Stavansの話を聞きに行ったのも、今まで名前しか知らなく、どんな人か 見てみたかったからである。 思ったよりも若い感じの人であった。

あと物理学科の人で、私がどうしても会ってみたいのはDavid Mukamelなのだが、 果たしてそのようなチャンスはあるだろうか? Domanyだけは何故かどの人かすぐにわかってしまった。 (特徴あるもんね。) 犬と散歩中の彼をよく研究所内で見かける。

Rony Granekが最近新しい理論を考えている。 私の昔の論文の結果を出発点にしているため、関連する仕事が既に存在 するのかどうか尋ねられた。 彼の新しい着想を聞かせてもらったので、とても楽しかった。


12月6日(月)

一般の人が目にすることはないのだが、日本化学会の「コロイドおよび界面 化学部会」のニュースレターに私がある文章を寄稿していた。 本日イスラエルに掲載号が送られてきた。

この分野に対する物理学者と化学者のアプローチの違いに触れた内容なので、 大部分が化学者である読者からどのような反応があるか、内心びくびく していたのである。 いきなり部外者が好き放題のことを書いてしまったので、化学者の反感を 買うことになっても仕方がない。

ところが先週、予想もしなかった偉い方から「全く同感でございます」という 内容のメイルをわざわざいただき、一瞬目を疑うと同時に、やはり執筆して 良かったと大いに勇気付けられたのであった。 物理学会育ちの私にとって全く未知の新しい学会に、同じような視点を 持っておられることがわかり、今後が非常に楽しみである。

原稿に興味のある方は、 ここからダウンロードして下さい。


12月5日(日)

先日入手したKeith Jarrettの"The Melody At Night, With You" (ECM)は、 最初にざっと聴いた時にかなり重要な作品と直観したので、 改めてヘッドホンでじっくりと聴き直してみることにした。 タイトルからして、都会のおしゃれなバーでカクテルでも飲む男女の ためのBGM(いわゆるカクテルピアノ)かと思ったが、実は全然そうではない ようだ。

全篇渋いバラードで固められたソロピアノは、Keith Jarrettの中ではかなり 異色の作品だと思う。 何故かというと、あのいつものうなり声がほとんど鳴りをひそめているからだ。 これまでだと、クラシックを演奏する時には声を出さないが、ジャズでアドリブが 必要な場合には必ずうなり声が出ていた。 と言うか、口で唄っているメロディを同時にピアノで演奏しているのだ。 今回はスタンダードを扱っているのに、うなり声が少ないのが非常に印象に 残った。 バラードだからではないと思う。 Keith Jarrettが変わった!

クラシックで声が出ないのは予め完成されたメロディが存在するからで、 逆にジャズで声が出るのはその場でメロディを生み出す必要からだろう。 そう思うと、今回のアルバムで声が出ないのは、彼の中でジャズのスタン ダードの唄い方が完成されてしまったからではなかろうか? 彼はジャズのある路線で最終地点に行き着いてしまったのだ。

Charles Lloydのカルテットデビューして30年間、彼は常にジャズを超えよう として闘ってきたような気がする。 闘い終って最終地点にたどり着いた彼は、あたかも母親に抱かれて眠る赤子の ように安心しきっている。 疑いも、不安も、興奮もない代わりに確信がある。 最終地点もやっぱり音楽だったのである。 この後に一体どんな音楽的な可能性が残されているのだろうか? ふと「死」という言葉が頭に浮かぶ。 早過ぎる。

ちょっと臭い文章を書き過ぎたが、このCDは名盤の仲間入り間違いなし。 これで新たなファンを獲得することも間違いなし。 昔の垂れ流しソロとは違います。 でも今からKeithのファンになってもすでに遅いかもね。 だって、もうすることがないもの。 Keithの現役の音楽生活はこれでおしまい。

私はKeith信者ではないが、このCDは傑作だと思う。 でもECMにお願い。 いくらこのCDが売れても、同じ企画のCDはこれ以外に 作らないでね。


12月4日(土)

すっかり書くのを忘れていたが、イスラエルは昨晩から「ハヌカ」 という祝日の期間に入った。 ハヌカは全部で8日間あり、8本に枝分かれしたハヌカ専用の蝋燭台 に、1日1本ずつ蝋燭をともしていく習慣がある。

ハヌカの期間中、大人の仕事は通常通りだが、学校は休みになるので、 子供達にとってはお楽しみのシーズンである。 西欧のクリスマスのように、プレゼントの交換などもするらしい。 油で揚げたジャムドーナッツやパンケーキを食べるのも、ハヌカの 習慣だ。 先日、スーパーでたくさん見かけた。

遠藤周作「死海のほとり」(新潮文庫)を読み進める。 こんな事を書くの馬鹿みたいなのだが、作家というのは文章の プロであることを、つくづく認識させられる。 例えば、車で主人公が初めて死海に案内された時の描写を引用 すると、

「円錐型の丘陵が行く手にそびていたが、その丘陵を過ぎた時、 ようやくうす茶色の砂漠がはるか向こうに現われた。 そして砂漠のなかに、眠ったような湖が拡がっていた。 午後の陽をあびて静まりかえった湖の向こうに、うす桃色に そまった蜃気楼のような山脈がある。 「死海さ」戸田はひくい声で教えた。」

この文章と私の11月12、13日の日記を読み比べると、 私の文章のあまりの幼稚さに笑ってしまいます。 特に11月12日の画像には、「うす桃色にそまった蜃気楼 のような山脈」という表現がぴったりですね。


12月3日(金)

ここのところ再び精神的余裕を失いつつある。 すべてを放り出したくなるような衝動にかられる。

午前中に研究所内を散歩しただけで、後はずっと家にいたのだが、 一日中考え事をしていたために、精神的に疲れる。 「肉体疲労時に」というドリンク剤はいくらでもあるが、 「精神疲労時に」飲むドリンク剤はないのかしらん。 (やばいのはいくらでもあるよね。)

これって「欝」という状態なのだろうか? 自分では病気だとは思わないが、知らない間に病気との境界を 越えてしまうこともあり得るのではないかという不安が頭をよぎる。 そう言えば、昔、胃の調子が悪かった時に医者に処方して もらったドグマチールという薬を持参していたことを思い出した。 これって抗欝剤なのだが、これを服用してもしも気分が良くなったら 欝ということかしら。

だんだん、危ない話題になってしまった。 体の中で何かが足りないような気がするのだが、もしかしたら音楽かも 知れない。 昨日買ったCDでも聴いて、リフレッシュすることにしよう。

ベエルシェバのドラえもんから電話がある。 元気そうで何よりだ。 (これまで「ドラえもん」の表記を誤っていたことをお詫びします。 「ドラエモン」ではないのね。)


12月2日(木)

今日はNIHのRudi Podgornickヴァイツマンを訪れていて、こちらの人が 順番に彼と議論をすることになっている。 私には11時から45分間ほど割り当てられていた。 つい自分がべらべらとしゃべり過ぎてしまったため、次のJacob Kleinの 時間を食ってしまい、Kleinには迷惑をかけてしまった。 (Podgornickにも迷惑だったという話もある。) 彼の研究内容はほとんど聞けなかった。

一昨日に電話があったヘブライ大学の日本人留学生にヴァイツマン に来てもらい、研究所内の食堂で一緒に昼食をとることにした。 彼はなんと福岡の高校を卒業してこちらに来ているということで、 非常にローカルな話題で盛り上がってしまった。

話をいろいろ聞いていると、彼は1年半前にイスラエルに来て、 数ヵ月ほどキブツで働いた後、ベエルシェバで「メヒナー」と 呼ばれる、大学に入学するための予備科のような所に通って いたらしい。 その後、イスラエルの学生と同じ共通テストを受けて、めでたく ヘブライ大学に合格したとのこと。 外国人が現地の人と同じ土俵で競って勝ち残るのは、並大抵の事では できない。 その意味で彼の生き方をたくましく思った。

夕方は買物に出かけて久しぶりにCDを2枚入手。 Charles Lloydの"Charles Lloyd In Europe" (Atlantic)と Keith Jarrettの"The Melody At Night, With You" (ECM)。 Charles Lloydの方も、ピアノはKeith Jarrettなのです。 最近は部屋が寒いためエアコンを使っていて、それが非常に やかましいので、CDの音が良く聞こえない。 と言うことで、ほとんど批評はできないのだが、この時代のCharles Lloydが悪いはずはない。

新しく引っ越してきた日本人家族のご夫婦が、夜にご挨拶にきて くれた。


12月1日(水)

Ulrichと一緒に、最近オープンしたばかりの食堂に行ってみる。 この食堂は、11月5日の日記で紹介した新しい建物の中にある。 ガラス張りの二階からは、建物の前の花が植えられた公園などが よく見えて、なかなか眺めがよい。 まだオープンしたことがあまり知られていないせいか、席も 空いていて快適であった。 ただし、メニューはすでにある食堂のものと基本的に同じなので、 少しがっかりする。

Safranの講義。 界面の熱ゆらぎ、Rayleigh不安定性。 学生の数がやや減ってきたものの、まだ15人程度はいる。 Safranが授業中に学生に何かを問いかけると、指名されなくても必ず 誰かが何かを答える。 素直だ。 これは日本の学生と違う。 日本の学生は自信がないのか、指名されても答えない。

インターネットで日本のニュースを見ていたら、今年の流行語が 発表されていたのものの、どれ一つとして聞いたことがなく、さすが に長い間日本を離れていたのだということを実感させられる。


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