イスラエルの地図 イスラエルの地図

不安なイスラエル日記(5月)


5月31日(月)

朝9時から、研究所内の安全講習を受ける。 書類には「義務」と書いてあるので、仕方なく行ってみたら、 しっかり出席をチェックされた。 化学薬品や生物廃棄物、放射性廃棄物など処理の仕方を聞きながら、 改めて実験は大変だなと思った。 薬品によってはガスマスクを着用しなければいけない。 (当り前か)

講習が始まる前に、別の見知らぬイスラエル人参加者から、 いきなり日本語で「日本から来ましたか?」と聞かれ、一瞬耳を疑う。 話を聞いてみると、彼は九大で学位をとって、イスラエルにポスドクと して戻ってきたばかりだそうだ。 名前をYosev Adanという。 かなり、上手な日本語を喋る。 昼食を一緒にとり、色々と話をする。 お互いに「福岡ねた」で盛り上がる。

Cohenというベングリオン大学のおばちゃん教授のセミナーがある。 生物の組織移植の話で、移植した細胞が増えるとか増えないという話。 日本でも臓器移植が始まったばかりなので、興味はあったのだが、 例によって専門用語がわからない。

先週、テルアビブ大学のHaim Diamantが、大学内の掲示板で、「英語から 日本語への翻訳できる人求む」という広告を見つけて、我々に教えて くれていた。 今日、電話して問い合わせみたら、彼らのホームページの日本語版を作成 したいらしい。 早速、 ここ を見てみたら、むちゃくちゃ怪しい。 速攻で断った。 皆さん、「カバラ(kabbala)」または「カバリズム」(カニバリズムではない)という 言葉をご存知ですか? 辞書によると、「ユダヤのラビが唱えた密教的神知論」だそうです。

船便の一つが、2ヵ月半でようやく到着。


5月30日(日)

朝一番で、レンタカーを返却しに行く。 帰りは、会社の人が研究所まで送ってくれる。

夕方から、学生のAnton Zilmanと話をする。 彼は学部生の頃からAndelmanと仕事をして、論文を書いている早熟な学生だ。 その後、軍隊に入り、週末の兵役のない時に物理の研究をして、3年間で 兵役義務と修士の両方を終らせてしまった。 これは相当すごいことだと思う。 普通は大学卒業後、3年間の兵役を終えてから、勉強を続ける。 修士(兵役)の時にも、膜の構造関数について良い仕事をしている。 それから、4ヵ月ほど南アメリカに行って、放浪の旅をしてきたらしい。 イスラエルの若者は、兵役を終えると、このような事をして自由な時間を 楽しむと同時に、自己探求の機会にすることが多いと聞いた。 こういう経験を通して、異なる文化の中でしたたかに生きていく術を身に つけるのだ。

Antonは2ヵ月前から、ようやくドクターの学生として本格的に研究を始めた ばかりだが、話をしてみるとかなり経験豊富な印象を受ける。 今後が楽しみな若者だ。


5月29日(土)

今日は夕方からレホボトの南側に位置する巨大ショッピングセンターに 車で行ってみた。 こういう場所は、土曜日でも開店しているようだ。 先週の土曜日にレホボト市内を歩いた時には、ほとんど誰も見かけなかったの だが、この郊外のショッピングセンターには人が溢れかえっていた。 皆さん、こういう所に行くのですね。 広大な敷地に、巨大な店が多数集まっていて、とても全部見ることはできない。 食糧は昨日、買い込んだばかりだったので、娘のおもちゃのマラカスを買った。 ドイツ製だった。

昨日も書いたが、レンタカーは丸一日借りて、(保険も含めて)約40ドル。 金曜の昼から借りて日曜の朝に返せば、かなり週末の自由度が広がる。 車を買うつもりはないので、イスラエルのような車社会では、結構便利な手 だと思う。


5月28日(金)

お昼から、日本人お医者さんにレンターカーの店を案内してもらい、 車の運転に挑戦。 こちらは車の運転が荒いので、少し不安もあったが、週末は車がないと 全く移動できないので、とにかく始めてみることにした。 パレスチナ自治区は運転しない、ということに署名させられた。 イスラエルの車は、ナンバー・プレートで、ユダヤ人とアラブ人が分かる ようになっている。 人口に対する交通事故死亡者の割合は日本と同じだが、料金は日本の2/3程度 ではなかろうか。 車線の右左よりも、最初はウィンカーが左にあるのと、ギアが右にあるのが違和感 がある。 早速、お医者さんの案内で、前に一度行った巨大スーパーまで運転したが、 今日は何故か13時に閉店してしまったようで、中に入れず。 仕方なくレホボトのバスセンターに行き、このときとばかりに、しこたま買い込む。 お医者さんも、西瓜なんかを買っていた。

夕方には、運転の練習を兼ねて、隣町のネスチオアナとリション・レチオン までドライブする。 夕方からは、シャバットなので車が少なく、運転しやすい。 途中で、シナゴーグ帰りにSafranに会ったので、妻を紹介する。 こちらで良いと思ったのは、左折車(日本の右折車に対応する)にはほとんどに場合、 別の信号があって、確実に左折できることである。 レホボト郊外で、シシリクを食べて帰る。 車があると、断然世界が広がる。


5月27日(木)

午前中は、1998年にノーベル化学賞を受賞したWalter Kohnの 講演が物理の講堂であったので、聴きに行った。 普段はあまり多くの人を見かけない研究所だが、さすがに会場は 超満員であった。 Kohn自身は物理学者であり、なかなか上品な老人だ。 講演では、現実的な分子の電子状態を計算するために、どうして 波動関数ではだめで、密度汎関数法ならばうまくいくのかということを、 実に分かりやすく説明していた。 1時間弱の講演だったが、非常に深いものがあったと思う。

昼食後には、Safranの学生のDima Lukatsukyに、彼の研究について話を してもらう。 普段は礼儀正しく、物静かな学生だが、物理の内容についての議論になると、 身ぶり手ぶり付きで興奮してくるのが面白かった。 電荷の揺らぎが、界面間に引力を誘起するという話。

夜は、研究所のCenter for Scientific and Cultural Eventsというところが 主催する、ジャズのライブに行ってみた。 先日門前払いになったクラシックコンサートもそうであるが、この他にも 演劇や講演など、様々なイベントが研究所内で企画されているのである。 さらに、関心したことは、このようなジャズのライブは、シリーズとして 月に一回、定期的に行われているのだ。 西欧ではジャズが文化として認識されているのだな。

今晩は8時半の開演だったので、私一人で行った。 Albert Piamentaというサックスの人のカルテット。 内容は残念ながら、あまり良くなかった。 まず、エレピとエレベであることに少しがっかり。 それから、ドラムがお話しにならないほどひどかった。 布団を叩いているような音と、思わず自分が代わりに叩きたいと思うほどの テクニック。 サックスとピアノはなかなか達者だっただけに、どうしてこういう組合せで やっているのか分からない。 2、4拍に手拍子を強要されるのも恥ずかしいが、なぜかそれが会場では 1、3拍になるので、血が逆流して汗が吹き出そうになった。 でも久しぶりに生音が聴けたので、それでいいです。 次回に期待しましょう。


5月26日(水)

昨日の日記で「研究のヒントを得た」と書いた。 そのせいで無意識に興奮したのかも知れないが、真夜中の3時過ぎに 目が覚めて、そのまま眠れなくなった。 仕方ないので起きて、モデルの細かい部分を詰めて考えてみた。 モデルがトリビアルではないことを確認する。 そのまま夜が明けてしまう。 眠くならないので、午前中はそのまま家で仕事をする。

午後はSafranと一時間半にわたって打合せをする。 彼がどういう物の考え方や捉え方をするか、という点に注意を払って話をする。

その後、バルイラン大学の例の「濃い」Rabinが来て、学生を含めてマイクロエマルション のダイナミクスについて議論をするというので、私も参加させてもらう。 早速、研究の方向性が決まり、近い将来に実験家を含めたミーティングを開くことになる。 こういう風に、理論家と実験家が以心伝心で研究が進められる環境を大変うらやましく 思う。 同時に、今までの自分の研究の仕方を反省することになる。 理論だけの遊びになっていなかったとは言えない。

明日は面白そうなことが幾つかあるので、日記を楽しみにしていて下さい。


5月25日(火)

ようやく、連日の猛暑は収まった。でも、昼間は相変わらず暑い。

今日はUlrich Schwarzの「生物セミナー」だった。 研究の話ではなく、皆で生物を勉強しようという目的だ。 細胞がいかにして動くかという話。 例によって、違う分野になると、とたんに専門用語が分からなくなる。 しかし、およその内容は掴めた。

生物を物理で扱うのが、最近またファッションになっていると思う。 戦後の一時期、世界で理論生物学なるものが流行ったことがあるが、DNAの発見で ほとんどすべて崩壊している。 生命現象は魅力的ではあるが、物理学者にとってはまだまだ危険な感じがする。 Safranもde Gennesに同じ様なことを言われたらしい。 自分も昔、生物を意識していた時もあったが、最近はあまり深入りしない ようにしている。 生命現象として意味がなくても、物性として意味があればそれで充分だと思う。 しかし、危ないけれども少し覗いてみたい、というのが人間の心情で、そういう意味 では今日のようなセミナーもで面白い試みだろう。

Lipowskyの論文を見て、研究のヒントを得る。

今晩は、11時から断水するので、早く寝ましょう。


5月24日(月)

ここ数日の猛暑は、「カムシン」と呼ばれるアラビア砂漠からの強風である ことがわかる。 これは、春から夏への季節の変わり目に典型的に起こる現象で、今晩で一段落する らしい。 この調子で夏になったらどうなることだろうと思っていたので、やれやれだ。

午前中は、Michel Elbaumのセミナーで、まさに昨日読んだParsegianとGingell の論文の実験的検証を行っている。 実際に、泥の溶液に塩水を加えて沈澱させてみたのは面白かった。 セミナーの雰囲気として、コロイドが極めて常識的な世界なので、嬉しい気持ち になる。

午後は、久しぶりにテルアビブ大学に行ってみた。 便利なことに、ヴァイツマン研究所から大学までの直通のバスがある。 一時間程度で到着。 Andelmanと話をした後、彼の学生のHaim Diamantのセミナーに出る。 このセミナーは学位取得のためのの公聴会を兼ねている。 実は、以前に予定されていたものが、大学のストライキでキャンセルされてしまった ため、今回やり直しとなったわけである。 高分子と界面活性剤の混合系の話で、臨海凝集濃度の新しいモデルを提案している。 もともとセンスが近いこともあるが、非常に面白い内容だと思った。 プレゼンテーションも明解で良かった。 それでも、いつもは気さくなHaimが、今日は少し緊張していたようだ。

今日驚いたのは、Andelmanに突然、兵役義務の命令が下り、この夏に24日間ほど 軍隊に従事しなければいけなくなったということ。 おかげで、この夏の予定は台無しらしい。 イスラエルの男性は、50歳になるまでは兵役義務があり得るらしいが、日本の大学教授が、 ある日から軍隊に行くなどということは想像できない。 しかし、逆にこういう制度のために、大学の雰囲気が権威主義的ではなくなる のかも知れない。 軍隊の中であれば、大学教授であろうと何であろうと関係ないからだ。

再びバスに揺られてレホボトに戻ってくると、お尻が少し痛くなった。 夕方には少し涼しい風が吹いていた。


5月23日(日)

冗談では済まされないほど暑くなってきた。 日本の真夏に暑さとも違うような気がする。 日中に外を歩くと、本当に体から水分が蒸発していくような感覚がある。 絶えず水分を補給しないと危険だ。 研究所内の芝生の上では、水着姿のおばさんが寝転がっていた。

ParsegianとGingellの古い論文を読む。 塩を含む溶液中では、正と負に帯電した界面間に「斥力」がはたらく場合が あること示している。 エントロピーの効果だ。 明解で実に良い論文だと思う。

群馬大学工学部の浜野賢治先生がお亡くなりになったことを知り、びっくりする。 しかも、50歳の若さだ。 物理の立場で界面活性剤系を実験的に研究しておられた、日本では数少ない研究者で あったため、大変ショックを受けた。 数年前に私が物理学会の高分子分科の世話人をしていた時にも、特別講演をお願い したことを思い出す。 お髭が印象的な大変気さくな先生で、いつか研究上の接点を持たせていただきたいと 考えていた。 ご冥福をお祈りします。


5月22日(土)

昨日も今日も風が強くて、しかもものすごく暑い。 テルアビブの気温は36度らしい。 これまでは、空は毎日雲一つない青空だったのに、昨日からは全体にうっすらと もやがかかったような状態だ。 しかし、日差しは相変わらず強い。 どうやら、アフリカから吹いてくる強い風のせいらしく、もしかしたら黄砂現象 のようなものなのかもしれない。 窓を開けていると、温風が入ってきて、しかも家の中が砂だらけになるので、 閉め切ったままにする。 その方がずっと涼しいのである。

今晩は日本人が集まって食事をすることになった。 といっても、我々以外では、同じアパートの福井医科大のお医者さんの家族 (子供3人)と、東工大から来ているポスドクの人だけである。 お医者さんが、週末にレンタカーを借りてくれて、皆をレストランにピストン 輸送してくれた。 行き先はレホボト市内の中華料理店。 外国にいる日本人にとって、中華料理は唯一安心して食べることのできる料理だ。 散髪、レンタカー、レストラン、買物など、レホボトでの生活の仕方を教えて いただく。


5月21日(金)

シャブオットは終わるが、引き続き安息日。

5月18日の日記で、研究所内のクラシックコンサートに子供連れで 入場できず門前払いになったことに触れたが、一読者から、あの日記 の内容では常識を疑われるのでは、という忠告のメイルを受け取る。 表現というものは、なかなか難しいものです。 当日のコンサートが私のイメージしていたものと違っていたという ことはあるにせよ、もちろん、Weizmannの主催者には何の不満も ありません。 しかし、私の一般的な音楽観として、必ずしもふざけて書いたわけ でもないのです。

その他にも、最近ツアーコンダクターになったばかりという人から、 「初めてイスラエルに行く予定で、不安で仕方がないので情報下さい」 というメイルをいただく。 インターネットには実に様々な側面がある。 筒井康隆の「朝のガスパール」という小説は、毎日の新聞連載の 過程で、読者からの電子メイルによって物語が組み立てられていった。 かつてその無限の物語空間に圧倒された経験は、私がこの日記を書き 始めるきっかけにもなっている。

夕方レホボト市内を散歩する。 連休の中日で、人影もまばらだ。


5月20日(木)

今晩(ユダヤ教の21日)からシャブオット(7週祭)。 ペサハ(過越しの祭り)から7週目にあたり、モーセがシナイ山で トーラー(教え)を授かった日を記念する。 つまりユダヤ教の誕生である。 一方、ほとんどのユダヤ教の祝日には、宗教的な意味と世俗的な意味の 両方がある。 後者の意味では、シャブオットは収穫を祝う祭りでもある。 キブツではすべての住民が畑に出て、歌ったり踊ったりする。

シナゴーグに行く敬虔なユダヤ教徒は、聖書のルツ記を読む。 今日のワイドショーの定番でもある「嫁と姑問題」が聖書の時代 にあったかどうかは知らないが、非常によくできた未亡人の嫁 ルツ(異教徒のモアブ人)が、義理の母親ナオミ(ユダヤ人)に 忠誠を尽くす話。 自分にとっては異国の地である、ナオミの故郷ベツレヘムで、 将来の夫であるボアズの信頼を得て、麦の落ち穂を拾うことを 許されるという下りがあるため、シャブオットで読まれるのだ。 ちなみにルツはダビデ王のひいばあさんにあたる。 ルツ記は面白い。 Stan Getzの娘の名前はRuth(ルツ)で、同名の曲もある。

シャブオットでは乳製品を食べる習慣がある。 そう言えば、昨日巨大スーパーでチーズケーキを大売り出ししていた。 あと、ユダヤ教の男性はシャブオットのイブは一晩中起きて、トーラー を勉強するらしい。 その昔、イスラエルの民はトーラーを授かる日に寝過ごしてしまい、 モーセに起こされたからとのこと。


5月19日(水)

今日はあまり体調がすぐれない。 広島弁でいうところの「たいぎい」感じで、こういうときにはセミナーに出て 時間を過ごすのがよい。 DNAに電流を流す実験の話。 発想が単純でわかりやすいのに加え、最近のメソスコピックレベルの 制御技術にはすごいものがあると感じた。 私は全然知らなかったが、今この分野では世界中で熱い研究の戦い が繰り広げられているようで、なかなか面白いセミナーだった。 講師の結論は、あるバイアス電圧以上で電流は流れるということらしい。 電流は流れない、という説もあるらしい。 DNAに電流を流してどうするのとも思ったが、癌治療に役立つ可能性が あるとのこと。 まあ、このあたりは愛嬌だろう。 面白ければそれでよい。

午後はSafranと打合せ。 ようやくSafranと話をするのも緊張しなくなってきた。

明後日の21日は「シャブオット」という休日で、明日20日は半休日だ。 土曜日を含めると連休になる。 なんだか、ここのところやたらと休日が多いが、これが終ればとりあえず 9月までは宗教的な休日はない。 というわけで、夜にSchwarzが郊外の巨大スーパーマーケットに車で 連れていってくれる。 どれくらい大きいかというのを口で説明するのは難しいが、今までの 私の人生で見た中で一番大きいことは確かだ。 巨大な倉庫と思った方がよい。 休日前ということで、身動きができないほどの混雑ぶりである。 果汁100%の「いちごバナナジュース」というけったいなものが 売っていたので、買って飲んでみたらそのままだった。


5月18日(火)

少し眠い目をこすりながら研究所へ向かう。 最近は物理の図書館でコピーをしてからオフィスに行くのが 習慣になってきた。

今日は研究所内の講堂で無料のクラシックコンサートがあるので、 妻が娘を連れて出てきたが、子供は入場できず門前払い。 他にも似たような状況のお母さんがいた。 こういうのはなんとかならないか。 本当に説得力のある音楽なら子供だって聴くはずだ。 「ブルーノートの発掘男」ことマイケル・カスクーナなんかは、 幼児の頃に150回以上コルトレーンのライブを聴いているのだぞ。

昼過ぎに別の用事でWeizmannに着ていたAndelmanと会い、 研究の打ち合わせをする。 その後、Michel Elbaumを含めた3人でアイスクリームを食べる。

5時から、SafranとSchwarzと私の3人がTenneにフラーレンの実験の 話を聞かせてもらう。 思った以上に英語が問題になった。 彼ら3人は分かっていて、私一人が取り残されるという状況が しばしば起こるのだ。 私の知らない専門用語がたくさん出てくるのも問題だったが、 やはり外人同士の会話のペースについていくのはとても難しい。 ほとんど黙っていて、時たま聞かれた質問にしどろもどろで答えて いたので、またアホだと思われたかも知れんな。 幸い物理には数式という別の言葉があるから、まあいいや。


5月17日(月)

投票日。午前中に研究所に行ってみたが、図書館も食堂も閉まっており、 ほとんど誰もいない。 仕方ないので、研究所においてあった文献をいくつか取ってきて、 家で仕事をする。

夕方、家族で研究所内を散歩しているとプールから帰ってきた Ulrich Schwarzと偶然会う。 彼は研究所内のレクリエーションセンターの会員になっているので、 こうやって週に2回程度泳いでいるそうだ。 泳ぎは得意ではないが、他にもいろいろと施設があるそうなので、 我々も会員になろうかと思う。 近くで中国人の集団がバレーボールに興じている。

さて、肝心の選挙は夜10時まで行われる。 Ulrichは家にテレビがないので、今晩私の家に選挙速報を見にくる ことになった。 今この日記を書いているのが9時なので、もう少ししたら来るだろう。 テレビでは、両候補の投票の瞬間、各投票所での様子、ベングリオン 空港の混雑ぶりなどを放送している。

10時前にUlrichがやってきた。 驚いたのは、10時を過ぎるや否や、出口調査の結果が発表され、 バラクの当選が伝えられたことだ。 予想以上の大差だ。 10時30分過ぎにはネタニアウの敗北宣言。 政治的な業績は別として、私はネタニアウの悪役レスラー的雰囲気は 好きだった。 特にバラクの童顔と比べると、ネタニアウの目つきの鋭さは際だって いたぞ。 印象的だったのは、その精悍な顔つきのネタニアウの目にうっすら涙 のようなものが見えたこと。

テルアビブのラビン広場には、真夜中にもかかわらず、群衆が集まり、 バラクの当選を喜んでいる。 真夜中に勝利宣言のスピーチをするバラクの前方には、ラビン元首相の 奥さんが映っていた。 彼女はラビンの遺志を継いで、草の根運動を続けていた。 和平推進派のバラクさんは私も歓迎だが、時計を分解して組み立てるのが 趣味らしいので、是非とも再び和平の時計が動くようにして欲しいものだ。

イスラエル国民の興奮ぶりをリアルタイムで経験でき、私も深い感慨を 抱く。 久しぶりの夜更しをする。


5月16日(日)

午前中は相図をきっちりと計算する。 妻と娘に研究所に来てもらって、昼食を一緒に食べる。 ちょうどUlrich Schwarzの親子とも会ったので、お互いに 紹介する。 Tenneに実験の話を聞くのは火曜日に延期される。

いよいよ、明日は投票日。 5人いた候補者も、今日の時点で3人辞退し、まさに ネタニアウとバラクの一騎打ちとなる。 これによって、明日の選挙で一挙に政権交代が起こる可能性が 高くなってきた。 明日のイスラエルはほとんど休日のような状態になり、人々は 仕事をしない。 研究所も閉鎖される。 日本だと選挙は必ず日曜日に行われるが、こちらでは安息日 には字も書かない人がいるので、宗教的に意味のない日を選んだ のだろう。 毎晩テレビで放送されていた政見放送で、耳にこびりついてしまった 各政党のテーマソングも、今晩はもうやっていない。 この選挙のために、国外から帰国してくるイスラエル人もたくさん いる。 前回の選挙では、そのためにアメリカから特別機が何機も用意された らしい。 明日はじっくりと選挙を見守りたい。


5月15日(土)

朝は遅くまで寝て、一週間の疲れをとる。 夕方までは初めてフラーレンの論文を読んで、明日に備える。 というのは、明日、同じdepartmentのTenneにフラーレンの コロイド分散系の実験の話を聞かせてもらうことになっている からだ。 昔自分がした計算と関連のあることに気付く。 新しい分野は不安もあるが、やはりわくわくする。

夕方は、再び研究所内を散歩する。 これまで、まだ見ていなかった建物を訪れてみた。 安息日で仕事をしている人はいないが、多くの人が散歩を 楽しんでいる。 研究所全体が公園のようで、すべてが気持ちいい。 雨が全く降らないのに、これだけ緑や花を維持するのは、 並大抵の労力ではない。


5月14日(金)

午前中は、バスセンターにあるショッピングセンターに行く。 足りなかった台所用品を幾つか買い揃え、食料品をしこたま 買い込む。 今日は、配達のサービスをしてもらおうと思っていたからである。 レジ係りの人が英語がわからず、少し手間取ったが、2時過ぎに 無事配達のお兄ちゃんがやってきた。 かごに入っている食品を、全部そのまま床の上に置くのには困った。

こちらでは、一週間に一度、毎金曜日にJerusalem Postという英字 新聞をとるようにしている。 金曜日の新聞には、一週間のイベント情報やテレビ番組などが掲載 されているからだ。 今日の紙面は、もっぱら総選挙についてである。 いよいよ投票日が来週の17日に迫っているが、最新の世論 調査の結果が載っている。 「今日、首相選挙があれば、誰に投票するか?」という質問に 対しては、

「今日、バラクとネタニアウの間で決戦投票があれば、 どちらに投票するか?」に対しては、 となっている。しかし、7%の人はまだ決めていない。 今度の選挙も、いかに接戦であるかがわかるであろう。 ネタニアウ陣営は、決戦投票になれば勝算があるとみている。 (こちらのテレビなどで発音を聞いていると、どう聞いても 「ネタニアフ」ではなく、「ネタニアウ」と聞こえる。 しかも、「ア」にアクセントがある。)


バラク支持の垂れ幕

夕方、研究所内を散歩する。 イスラエル初代大統領Chaim Weizmannの家と墓を訪れる。


初代大統領Weizmannの家

ジャズドラマーの日野元彦が53歳の若さで亡くなった。 彼が癌と闘っていることは、3月の写真週刊誌で知っていたが、 こんなに早く死が訪れるとは思わなかった。 音楽性、テクニック、人気ともにナンバーワンのままの死去だ。 私の師匠、故小津昌彦は自分からはジャズを聴かなかったが (耳がいいので、聴くとそういう演奏になってしまうから)、 「トコベエの演奏だけは、どんなにボロボロになっても、 毎回新しい事にチャレンジしてしているので聴いてみたい」 と言っていた。 そんな小津氏の通夜でも、トコベエはドラムを演奏していた。 トコベエに「日野皓正の弟の」という枕言葉はいらない。


5月13日(木)

午前中はモデルの相図を計算する。 昼食はUlrich Schwarzが誘ってくれる。 今日は(例の)ガールフレンドのStefanieと11ヶ月になる David君も一緒だ。 StefanieはDavidを午前中ベビーシッターに預けて、研究所内 の図書館で博士論文の準備をしている。 同じ年代の子供がいると、お互いに親近感がわく。 Weizmann研究所の良いところは、このように家族や子供が 研究所内の施設を利用しても全く問題ないということである。 スタッフや研究者の家が研究所内にあるので、自然とこういう 雰囲気になるのだろう。 また、イスラエル全体としても、次代を担う子供を非常に大切 にしている感じがする。

午後はRony Granekと3時間近く話をする。 この人は私と年代が近いせいか、結構気が合う。 いくつか面白そうな論文を教えてもらった。 しかし、半分位はどうでもよいような話をだべっていたような 気がする。 話好きなんだな、この人は。 来週から2週間ほど中国に行くらしいが、無事に帰ってくるかしら?

そう言えば、本日からイスラエル政府観光局のホームページで、この この日記にリンクを張っていただいたようだ。 ここ をご覧下さい。 最近は、こちらでも日記を読んでいただいている人を把握 できなくなりつつあり、全く初めての方から、娘の病気見舞いの メイルをいただいたりする。


5月12日(水)

午前中に物理の図書館に行ってみる。 ここも気持ちの良い建物だ。 当然、物理関連の雑誌や本はほとんど揃っている。

どういうわけか、日本からのメイルが研究所内のアドレスに 着かなくなっているようだ。 計算機センターに問い合わせてみると、ほどなく修復して くれた。 ただし、メイルは今まで通り九工大に送ってもらって結構です。

昼食はポスドクのUlrich SchwarzとスタッフのRony Granek と食事をする。 SchwarzはベルリンのMax Planck研究所において、Gompperの もとで学位をとった学生である。 イスラエルには昨年の秋から、奥さんと11ヶ月の子供と 一緒に来ている。 いつも昼食はどうしているのか聞くと、「自分のガールフレンド と一緒に行くことが多い」と言うので、おいおいいきなり 研究所内不倫かと思っていると、まだ奥さん(?)とは正式には 結婚していないらしい。 ドイツでは結婚前の同棲というのは非常に日常的であるが、 こういうのもありか? それとも、彼がポスドクだから結婚してもらえないのだろうか。 そうだとすると結構シビアだな。 今日のところは月並みな会話。 研究の方向性で少し悩んでいるようだ。


5月11日(火)

午前中は簡単な数値計算を行う。 簡単なので、すぐにうまくいく。

Andelmanから電話があり、テルアビブ大学はまだストライキを やっているとのこと。 交渉妥結について"Is there any hope ?"と尋ねると、 "There is always hope !"と答えた。 こういう明るさは重要だと思う。

研究所内にはFacultyごとに図書館があり、どこに行けばどの 文献ががあるかが、およそ把握できるようになった。 今日は早速Life Scienceの図書館に行ってみた。 ガラス張りで円形のモダンな建物で、快適な空間になっている。 しかし、ほとんどの雑誌はオンラインで入手できるので、 つくづく便利な世の中になったものだと思う。


5月10日(月)

午前中のBar Ilan大学のRabinのセミナーがある。 「濃い」おっちゃんだ。 Rabinとは私が京都にいた頃会っており、覚えていてくれた。 当時は私がイスラエルに行くことになるとは、考えもしなかった なあ。 "Charged Gel"の話の中で日本人研究者の名前が何度か出てきて、 この分野で日本は大きな貢献していることがわかる。

ダイアルアップ接続も無事つながり、ケーブルテレビも見られる ようになったため、かなり外界の情報が入ってくるようになった。 イスラエルのトップニュースはいつでも世界情勢についてだ。 しかし、コソボ危機はなんとかならないものか。

それにしても雨が全然降らない。 要するに乾季になってしまったわけで、イスラエルの人に とっては毎年の当たり前の事なのだろうが、私は不安になる。 しかも前回の雨期には、例年よりも雨量が少なかったらしい。 水不足にならなければよいが、、、


5月9日(日)

午前中に銀行に行き、TCを換金してもらう。 シェケルは年に10%程度のインフレらしいが、銀行預金の利率も 10%以上あるらしい。

今日は一日中、コンピューター関係のセットアップを行う。 自分のパソコンや計算機センターのワークステーション、メイルの 設定(特にに日本語の扱いが問題)、プリンターの設定、ダイアル アップ接続など、やることがたくさんある。 現在は化学のFacultyに属しているため、建物がUNIXのためのネット ワークになっておらず、Linuxからのプリンターの設定が難しい。 また、ダイアルアップ接続のために、研究所独自のソフトをインス トールする必用があり、これに手間取る。 ポスドクのUlrich Schwarzが手伝ってくれる。 おだやかな青年だ。

Safranと一緒に昼食をとる。研究所全体の構成や、Safranが所属する "Department of Materials and Interfaces"の構成人員や研究内容に ついて詳しく話を聞かせてもらう。 Weizmannの化学は学際的で、生物から物理まで幅広く網羅 しており、非常にダイナミックな印象を受けた。 日本の大学の化学科のような古色蒼然とした雰囲気とは正反対だ。 日本物理学会で化学物理の分科を立ち上げた人達が主張している ように、西欧における化学の位置付けは日本と随分異なる。


5月8日(土)

安息日。 午前中は家の中を片づけて、仕事ができるようにする。 家が広いと掃除も大変だ。

午後から研究所に行き、Linuxのネットワークの設定を行う。 これは一発でうまくいき、久しぶりに仕事の態勢が整う。 テルアビブ大学はまだつながらない。 この一週間でたまっていた雑用を片づける。

最近は就寝前に、桂文珍の「落語的学問のすすめ」(新潮社) を読んでいる。 関西大学での講義をそのまま文章におこしたものであるが、 とても面白い。 さすがに話のプロだけあって、話題の展開の仕方が非常に うまい。 同じく講義をする立場として、感心することしきり。 お薦めです。


5月7日(金)

娘の熱は下がり、赤い湿疹が出てきた。 どうやら、突発性湿疹のようだ。 本に書いてある説明と、症状経過が非常によく似ている。 これであれば、心配することはない。 日本人のお医者さんにも見てもらい、やはりそうであろうという ことなので、ようやく安心する。

午前中は、私一人でレホボトのバスセンターにあるショッピング センターを偵察してみた。 家の近くのバス停から10分程度の距離だ。 比較的最近できたばかりのモダンな施設で、想像していたよりも 遙かに大きなものであった。 必用なものはすべてここで揃いそうなので安心する。 さっそく、テレビ、CDラジカセ、帽子、サングラスなどを 購入した。 テレビを買った電気店では、秋葉原の電気店にいそうな調子の いいおっちゃんがいて、電卓で値引き価格を見せてくれる。 こちらがまだ買うとも言っていないのに、どんどん事を進めるの には参ったが、まあそれほど大きな買い物ではないので、薦める ものを買った。 どうしてもSONY、SHARPなどの日本製品は高い。 私はスペインのSABAという初耳の会社のテレビを購入したが、 それの倍以上はする。 実は中国製のもっと安いものもあったのだが、さすがにそれは不安 だったのでやめた。

今晩から安息日になるので、お昼過ぎに店は閉まる。 テルアビブよりも田舎なので、これはより徹底しているようだ。 帰宅後、ほどなくしてテレビが宅配された。 週明けにケーブルテレビに加入しようと思う。 少しづつだが、生活の態勢が整ってきた。


5月6日(木)

ここ数日のドタバタで疲れていたので、午前中はゆっくりと休む。 幸い娘の熱もようやく下がってきた。 日本への電話も問題なくつながる。

午後から研究所に行き、コンピュータのアカウントの 登録などをする。 日本大使館に在留届をFAXで送る。 オフィスで、久しぶりにパソコンをネットワークにつなぐ。 テルアビブ大学のストライキはまだ続いているようで、相変わらず ログインできない。 従って、この一週間の間に私に送られたメイルは相変わらず読む こともできない。 九工大に送られたメイルはテルアビブ大学に転送されないように 設定を切り換えた。

それにしても、テルアビブ大学のストライキは信じられない。 事務員、秘書、管理人が給料の値上げを要求していて交渉が こじれてしまったのだが、丸一週間大学の機能が完全にストップ しているのだ。 ひどいのは全く予告なしに、電気を切ったりつけたりするので、 コンピュータや実験装置が壊れてしまった研究室もあるらしい。 イスラエル人は適当に妥協しないで、徹底的に戦うのかもしれない。


5月5日(水)

レホボトへの引っ越し日。

朝6時半に起きる。 就寝直後から、蚊に悩まされ、ほとんど徹夜状態。 9時までに、Andelmanと学生2人が車でアパートに来てくれて、 すべての荷物を運び出す。 10時過ぎに無事に研究所のアパートに到着。 子供用のベッドも組み立てて、ようやく一息つく。 リビングも20畳以上あり、3人にはとても広すぎるくらいだ。 こんなバルコニー付きの家に住むことは、日本では考えられない。

午後から歩いて10分程度のWeizmann研究所に行く。 外国人研究者の登録を済ませ、専門の人から非常に丁寧な説明を 受ける。 それからSafranと会い、幾つか事務的な打ち合わせをする。

夕方、研究所で紹介された新しい小児科医を訪問する。 熱はまだあるが、それほど心配することはないと言われる。 今まで3人の医者がすべて「ウイルス性の感染症」と言うので、 たぶんそうなのであろう。 いずれにせよ、まだ原因ははっきりしない。

帰宅後、同じアパートに住む福井医科大の産婦人科のお医者さんが 部屋にきてくれる。 子供の様子も見てくれた上で、レホボトでの生活について色々と 教えてもらう。 大変心強い存在だ。

たくさんのことがあり、くたびれた一日であった。


5月4日(火)

娘の高熱が続く。 解熱剤は一時的にしか効かない。 朝一番で、昨日と同じ小児科医に診てもらう。 日本の個人の開業医を想像してはいけない。 看護婦もいないし、受付もいない。 医者の自宅を個人的に訪問していると思った方がよい。 100シェケル(3000円)支払う。

Andelmanにイスラエルの医療制度を教えてもらう。 National Health Service(NHS)という国家的な保険が何種類か あり、国民は毎月1万円程度払って、そのどれかに加入する。 NHSに加入していると、クリニック(診療所)という所で簡単な診療や 検査を受けることができ、お金はほとんど支払わなくてすむ。 各医者は幾つかのNHSに登録されている。 患者は、自分の加入しているNHSに登録されている医者のリストを持っ ていて、医者を個人的に訪問することもできる。 日本と決定的に違うのは、クリニックでの仕事以外にも、 医者が個人の立場で患者を診察することができ、しかも自分で 勝手に値段を決めることができるという点だ。 それで、一回の診療が適当に100シェケル(3000円)など となるのだ。 腕に自身があれば、500シェケル(15000円)というような 場合もあり、それが高すぎると思えば受診しなければよい。 我々はNHSに加入していないので、個人的に診察してもらうしかない。

夜8時過ぎに、解熱剤を投与しても熱が下がらないので、 医者に電話すると、「Hospitalへ行ってきちんと検査をして もらえ」と言う。 日本的な感覚では、それはあんたがするべきことではないのか、 と思うのだが、どうもそうではないのだ。 医者の自宅には薬品などがないのだ。 仕方なくタクシーで、テルアビブ最大のIchilov Hospitalへ行き、 Emergency Serviceの世話になる。 ここは日本の総合病院を想像してよい。 しかし、イスラエルでHospitalを使うのは、よほどの重傷か緊急の 場合のようだ。 さて、ここからが大変。 延々と待って、血液検査と尿検査が終わったのが、夜中の1時過ぎ。 幸い何も問題はなかったのだが、とにかくなんだかのんびりしている のだ。 明日は早朝から引っ越しだというのに、帰宅したのは午前2時。 それから、荷物の整理や部屋の掃除をする。 どっと疲れる。


5月3日(月)

娘が急に発熱する。 午前中はとりあえず様子を見るということで、大学に行った。 大学はまだ組合のストライキ中で、電気もネットワークも遮断 され、完全にお手上げ状態だ。 その後、妻からの連絡で熱が上がっているという。 Andelmanに小児科医を紹介してもらい、午後6時に予約をとる。

昼食は大学のFaculty Clubでフルコースの料理をいただく。 このようなきちんとした大人の社交の施設があるのは立派だ。 アラブ人が使っていた古い豪邸を改装したもので、緑色の壁が 印象的な趣のある建物だ。

昼食後に部屋に戻ると、妻から電話があり、娘の熱がどんどん高く なったので、すでに紹介された医者に行って診察してもらったとの こと。 とりあえず解熱剤を投与してもらい、経過を見ることにしたらしい。 夕方の時点で、もう一度医者に連絡することになったので、私も早め に帰宅する。 帰宅後に熱が再び上がったので、医師の指示のもとで2度目の解熱剤 を投入。 今晩の経過を注意深く見守る必用がある。

今日診てもらった医者は、いわゆる「個人医」で、初診料として 200シェケル(約6000円)支払った。 これはもちろん、日本で予め加入していた海外旅行保険で帰国後に 払い戻しをしてもらう。 まだイスラエルの医療の仕組みが良くわからないのだが、個人医とは 別に「クリニック」という国が運営している施設があり、国民は ここでほとんど無料で診療してもらえるようだ。


5月2日(日)

午前中はOrlandのセミナーで、内容はクーロン流体の場の理論。 Saclayのほとんどの理論物理学者は場の理論の専門家である、 というイメージを私はもっているが、確かにOrlandも抜群に数学が できる。 すべて黒板を使って説明していたが、その計算力はものすごい ものがある。 久しぶりに、ひやりとするほどの切れ味の良さに触れた感じがして、 気持ち良かった。 場の理論もあれだけできれば、かっこいいよなあ。

セミナーの途中で、とんでもないことが起きた。 なんでも、大学の事務員や管理人のストライキで、建物内の 送電が突然ストップされてしまったのである。 もちろん、事前の通知は全くなしである。 労使交渉が難しい状況になってしまったらしい。 そういえば、先週末から図書館が使えなくなっているのもその せいだ。 少なくとも、日本では組織としての責任という考え方があるので、 こういうことは起こらないと思う。 結局、電気は回復したが、ネットワークはつながらなかった。

夕方、学生のYoav Tsoriと話をして、彼の研究について説明 してもらう。 ブロック共重合体におけるラメラ相のgrain boundaryを扱って いる。 先生(Andelman)のアプローチとは別に、自分自身の独自の方法も 考えていて、なかなかよくやっている。 彼はキブツの出身である。 キブツとはイスラエル独自の社会主義共同体である。 メンバーは私有財産を持たず、必要なものはすべて供給 される仕組みになっている。 ただし、キブツに属する人は国民の数パーセントにも満たず、 最近は減少傾向にあるらしい。 要するに、はやらないのだ。 いずれ彼のキブツを訪れてみようと思う。


5月1日(土)

厳格なユダヤ教徒は、安息日になると、以下のようなことは 一切しないらしい。 (もちろんこれらは、ほんの一例であって、日本人が驚くこと を並べている。 また、本当に厳格なユダヤ教徒は国民の1割程度に過ぎない。)

ユダヤ教では、これらはすべて「仕事」と考えられている からである。 (写真に撮られるのがいけないのは、モデルの仕事をした ことになるから。) もちろん安息日にはバスも止まる。 しかし、その肩代わりとして、タクシーなどの私的交通機関 が発達し、不便さを穴埋めしている。 タクシーは安いと思う。 日本の1/3程度ではないか。

前置きが長くなったが、今日は午前中タクシーで、テルアビブ 美術館に行ってみた。 こういう所は観光地なので、安息日でも開館しているのだろう。 案の定、多くの人が集まっている。 比較的新しい美術館であるが、世界中のユダヤ人から寄贈された 美術品が豊富に展示されている。 私は美術には全く疎いのだが、初めてKandinskyの絵を見ることが できて、興味深かった。 名古屋にいるF氏が大好きなKlimtも何枚か展示されていたぞ。 Chagallがユダヤ人であることを認識する。 それから、初めて知った、ウクライナ出身のAlexander Archipenkoの 立体的な絵(彫刻?)は妙に印象に残りました。

その後、近くにあるヘレナ・ルビンスタイン博物館に行ってみたが、 本日閉館。 ガイドブックに書いてあることと違う。 ここはイスラエルの芸術家の作品が揃っているらしい。 仕方なく「シシリク」を食べて、タクシーで帰宅。 今日の日差しは日本の7月並だ。


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