イスラエルの地図 イスラエルの地図

不安なイスラエル日記(9月)


9月30日(木)

ここ数日の暑さは、季節の変り目にアラブから吹く「ハムシーン」という 熱波のせいらしい。 そう言えば、5月にも同じような経験をした。

新聞によると、昨日訪れたガリラヤ湖の水位がどんどん下がっていて、 レッド・ラインに近づいているらしい。 (もちろん我々が目でみただけではわからなかった。) 海抜「マイナス」213メートルのレッド・ラインとは、これ以上水が少なく なると水質が悪化し、生態系にも悪影響を及ぼすということで設定された水位だ。 ここまで水位が下がったのは、近年の歴史でも初めてのことらしい。 そのため、政府の関係する機関が対応を迫られている。 中東諸国にとって、水は本当に死活問題だ。


9月29日(水)

朝食用の食堂は朝から大混雑。 イスラエル人は遠慮などしないから、セルフサービスのような状況に なると、もうやりたい放題である。 しかも、朝から皆さん大声で喋っている。 ○○農協御一行様も元気一杯だ。 我々(特に娘)もしっかり腹ごしらえをして、さらにパンを余分にせしめておく。 後でこれが役立つことになる。

今日の目的は、ガリラヤ湖畔のイエスゆかりの地を訪れてみること。 最初にティベリアから車で10分程度にある「マグダラ村」へ。 現在のマグダラ村は道路の西側にあるが、新約聖書に登場する 「マグダラのマリア」が住んでいたとされる場所は、道路と湖の間で あったらしい。 しかし、今はビーチがあるだけで特に何もない。 とりあえず、訪れたということにする。

次にイエスの宣教の地として有名な「カペナウム」に行く。 ここはガリラヤ湖のほぼ北端に位置する。 現在この場所は廃虚となっていて、シナゴーグの跡など幾つかの遺跡が 残っているのみ。 入場料は2シェケル(60円)と安いのだが、半ズボンでの入場を断られる。 諦めようかと思っていると、適当に布を腰に巻いただけの人が中から出てくる。 そこで、私も腰に着替えのシャツを巻いて、膝を隠してあっさり入場する。 しかし余りにも暑すぎて、なんだか真剣に見る気がしない。


カペナウム

その後、「パンの奇跡の教会」へ車で移動。 イエスが魚とパンを増やして、何千人もの聴衆の腹を満たした話と関係 している。 ここは、ビザンチン時代のモザイク画が有名で、特に二匹の魚を描いたもの が必ず観光書では紹介されている。 「なるほど、これがあれか」とミーハー状態で魚のモザイク見て いたのだが、よく見ると結構きれいな形で残っていることに驚かされる。 修道院の中だけは涼しくて気持がよい。


パンの奇跡の教会

それから車で山を少し登り「山上の垂訓教会」へ向かう。 これは1930年に完成した比較的新しい教会である。 あいにく昼休み中で中には入ることができず残念。 しかし、外から見える教会はモスクのような雰囲気もあり、 とても美しい。 この時点で午後1時。

ここから西の方向へ1時間程運転し、一気に地中海沿いのアッコに到着する。 元々アッコには来るつもりはなかったが、帰る途中なので、昼食を兼ねて 少しだけ立ち寄ってみることにした。 アッコの見どころは城壁で囲まれた旧市街で、多くの遺跡やモスク、教会 などがある。

インフォーメーションの近くで駐車して歩き始めたものの、方向を間違えて 城壁の外に出てしまう。 再び引き返して、今度はアラブ人の店が立ち並ぶスークに入っていく。 しばらく歩いたものの、例によってアラブの雑然とした雰囲気や、あたり に漂う異様な臭い、散乱した生ゴミなどを見ているうちにすっかり気が 滅入ってしまう。 とても食事をする気分にはなれない。 それより病気になりそう。 おまけに地図の上でどこを歩いているのか分からなくなりそうだったので、 それ以上進むのは断念して、最初のインフォーメーションまで戻る。 うーん、私はまだまだアラブの生活形態を受け入れられない。

仕方ないので、インフォーメーションの向かい側にある、モスク・アル・ ジャザールに入ってみることにする。 その時丁度イスラムのお祈りの時間になってしまったので、10分程度 外で待たされる。 1781年にオスマン朝の知事(パシャ)、アフメッド・アル・ジャザール によって建てられたこのモスクは、イスラエル第2のモスクだけあって、 非常に豪華な作りである。 床にはペルシャ絨毯が敷きつめられ、立派なシャンデリアなど内装も目を 見張る美しさであった。


モスク・アル・ジャザール

他にもまだ見るべき所はあったのだが、まだ暑いし、明るいうちに運転を したかったので4時にアッコを出発。 出発前にザクロの搾りたてジュースを初めて飲んだ。 ハイファを抜けて、高速道路をひたすら南下する。 朝せしめておいたパンで食いつなぐ。 テルアビブに着くと、なんとなくほっとする。 レホボトに戻った時にはとっぷりと日が暮れていた。


9月28日(火)

先週末にガリラヤ湖へ行く予定であったが、妻の不調で取り止めにした こともあり、少々突然の思い付きではあったが、今日から2日間の 休暇をとってティベリアやガリラヤ湖の周辺を訪れることにしてみた。 ティベリアという地名は、約2000年前に、時のローマ皇帝テイベリウスに 敬意を表して付けられたものである。 現在もガリラヤ湖の中心地である。

午前11時に家を出発し、テルアビブを高速道路で抜け、一路北を めざす。 カイザリアの次のインターチェンジで高速道路を降りて、一旦、食事休憩。 次に北東に方向を変えて、約1時間ほど走り続ける。 しばらく起伏のある地形が続いた後、眼下のすばらしいガリラヤ湖の風景が 突然目に入ってきた。

ほどなくしてティベリア市内に突入し、どんどん急な坂を下っていく。 さすがに海抜がマイナスの土地だけのことはある。 ガリラヤ湖に沿った道路まで下りきって、少しだけ北に移動すると、 我々が予約しておいたホテルが見えてきた。 2時半到着。

スウコットの期間中ということもあって、ロビーは子供連れの家族や、 ○○農協御一行様のような客でごったがえしている。 最上階に近い部屋に入り、カーテンを開けると、そこには一瞬目を疑う ような(?)絶景が広がっていた。 見えるものは、ガリラヤ湖の水と対岸のゴラン高原、雲一つない青空の3つだけ。 すべてが直線。 これだけ印象に残った風景というのもそうはない。 しばし、ぽかんと口を開けて見とれていた。


ホテルからのガリラヤ湖

3時半過ぎにホテルを出て、湖沿いを歩いてみる。 イスラエルは一旦気温が下がったのだが、ここのところ再び暑さがぶり返して きた。 今日のティベリアの最高気温は37度。 さらに、湖がそばにあるせいで湿度も非常に高い。

十時軍の要塞、スコットランド教会を外から眺め、シーフード・レストランが 立ち並ぶプロムナードを歩く。 しばらくしてギリシャ正教修道院につきあたり、右に折れると考古学公園に 出る。 (聖ペテロ教会を見逃したのは少し残念。) 公園内のインフォメーションでしばらく水分補給休憩。


考古学公園

ようやく太陽が西の山に沈んだので、再び桟橋のガリラヤ・エクスペリエンス という建物まで移動し、湖畔の喫茶店に入る。 この建物にはみやげもの屋も数軒入っているので、少し物色してから、絵葉書 とタリートを購入。

ガリラヤ湖に来たら、セント・ピーター・フィッシュを食べないわけには いかないので、最初に通過したプロムナードのシーフード・レストラン街まで戻る。 同じようなレストランが4、5軒立ち並ぶ前の狭い道を歩くと、それぞれの 店のボーイが、日本の風俗店の呼び込みのように、「セント・ピーター・フィッシュ、 45シェケル」と耳元でささやいてくる。 彼らにとって、我々のような日本人観光客はまさにカモである。 我々も多少うざったいとは思いながらも、素直にその中の一つに入る。

セント・ピーター・フィッシュとは聖書に登場する魚で、ペテロが釣り上げた時に 銀貨をくわえていたとされる。 焼いたものと揚げたものを一匹ずつ注文する。 見た目は結構グロテスクであるが、味はなかなか良い。


セント・ピーター・フィッシュ

食後、しばしプロムナードを散歩する。 昼間は観光地とは思えないほど人が少なかったのだが、この時間になると 大勢の人で賑わっている。 おそらく、昼間の暑い時間帯はプールや温泉で過ごし、日が落ちてから 外に出てくるのだろう。 リゾート気分を味わう。

ホテルに戻ると、今度は月が湖面を鮮やかに照らしている。 ホテルの前の庭で、夜の11時半までディスコをがんがんやっていたのには閉口したが、 やかましい音楽が終ると同時に眠りについた。


9月27日(月)

何故か今日も食堂でヨセフ・アダンと偶然会って、一緒に食事をする。 たまたま、話題が彼の兵役経験に及び、非常に興味深い話を聞かせて もらった。

彼が兵役についたのは1985年で、レバノン戦争の終結直後だった。 イスラエルとレバノンの国境を越えて、ヒズボラなどのテロ組織の アジトを探す仕事をしたらしい。 レバノン戦争がどうして始まったかなどを教えてもらった。

その後、現在進行中の和平プロセスの話になり、色々とヨセフの本音を 聞かせてもらった。 中でも印象に残った彼の主張は、

イスラエルは1967年の6日間戦争で、エルサレムを武力で奪い取った ので、そういうのは許されるのかとか聞きたかったのだが、話が長くなり 過ぎたのでやめた。 基本的に弱肉強食の考え方があると思った。

レホボトとエルサレムの中間あたりに位置する「ゾラ」というキブツで、 エルサレムポストが主催するスウコット・フェアが開催されているので、 夕方に訪れてみた。 その後、すぐ近くのベイト・シェメシュで行われた、"Festival of Jewish Rock & Soul Music"の様子も見てきた。 典型的なユダヤ人を数多くみかけることができ、どちらもなかなか楽しめた。


9月26日(日)

週の初めであるにもかかわらず、朝寝坊をしてしまった。 だいたいいつも、目覚し時計で仕掛けた時間よりも子供の方が早く騒ぎ 始めて、それで起こされるのだが、今日は両方とも機能しなかったようだ。

食堂で昼食をとっていると、九大にいたヨセフ・アダンと会った。 今週はどの程度の人が働くのかヨセフに聞いてみたら、半数以上の人は 働くだろうということだった。 事実、食堂もそれなりに混雑している。

たまたまヨセフの知り合も一緒にいたのだが、少し話したところによると、 この人はアラブでユダヤ人として生まれ、フランスで育ち、カナダで大学を 出て、イスラエルでドクターの学生になってから5年になるという。 ドクターを取得したらどうするのか尋ねてみると、自分のアイデンティティが どこの国にあるのかよくわからないので、難しい質問だと言われた。 でもすでに37歳でなので、どこかで落ち着きたいと言ったのが印象的だった。

これまで何も疑わずに日本でぼんやりと暮らしてきた私としては、非常に考えさせ られるものがあった。 「イスラームの日常世界」を読んでも思ったのだが、自分がこれまでに絶対的で あると思っていた価値観は、自分で何も考えないでいると必ずたどり着くような レベルのもので、極めて薄っぺらいことがよくわかる。


9月25日(土)

今年のスウコットの初日はシャバットと重なっている。 こちらには振替休日などというものがないので、学校に行く子供達は損を した気分になるらしい。 なぜならば、一週間後のシムハット・トーラー(律法の歓喜祭)もシャバット に当たり、合わせて2日分も休日が減ることになるからだ。

アパートの庭に建てられたスウカーの写真を撮らせてもらう。 今日はシャバットなので、中にいる人に一応許可を得てから撮影した。 画像は昨日の日記に載せました。 なんとなくキャンプをしているような楽しさがあるようだ。 夜もそれとなく様子をうかがいにいったら、やはり中で食事をしていた。 非常に興味深い風習である。

先日、日本から送ってもらった本の中から、片倉ともこという人の 「イスラームの日常世界」(岩波新書)を一気に読み終える。 イスラエルとパレスチナの最終地位交渉はいよいよ始まったが、 物事をイスラエル側からの視点だけで見ていては、全体の状況が把握 できない。 アラブについてもっと知りたくなり(音楽だけでなく)、お願いしてあった 本である。

この本を読んでイスラーム世界に対する見方が少し変ったのは事実。 ただし、この本ではイスラーム世界の良い面だけが述べられている、 或はすべてが良く解釈されてような気がするので、否定的な部分も含めて もう少し客観的な事実を知りたいものだ。 日常生活だけでなく、政治、宗教、歴史などにも言及して欲しかった。

いくつか印象に残ったのは、


9月24日(金)

妻も元気になったので、午後から研究所へ行き仕事をする。 誰も人がおらず、ひっそりとしている。

さてさて、今晩から仮庵(かりいお)祭(スコット)が始まる。 スウカーの複数形であるスコットは、「スウコット」と発音した方が正しい ようだ。 スウカーとは簡易テントのようなものであるのだが、3500年前にイスラエル 民族がにエジプトを出てから、放浪の旅を続ける中で、砂漠などの厳しい自然環境の 中で過ごした仮設住宅を象徴している。

2畳程度の面積に4本の柱を建てて、全体を布で覆い、屋根には耶子の葉 をのせる。 室内に、日本の七夕の時のような色とりどりの飾り付けがしてある。 中にテーブルと椅子を持ち込んで、スウコットの期間はそこで食事をする。 どこからか電気もひいてきている。 中で寝泊りすることもあるそうだ。


スウカー

すでに過ぎたローシュ・ハシャナーとヨム・キプールは非常にシリアスな 祝日であるのに対して、スウコットは学校も休みになり、子供達にとって も楽しみな祝日である。 多くの人が旅行をしたり、家族を訪問したりして過ごす。


9月23日(木)

妻の背中の痛みは和らいだものの、完全には消えていない様子。 明日から丸一週間は仮庵祭(スコット)で国全体が再び休日モードに なってしまうので、用心をとって医者に行くことにした。

アパート内のドイツ人に紹介してもらった医者に電話をして、 指定された時間に医者の自宅にタクシーで乗りつける。 このパターンにもかなり慣れてきた。 一通り調べた医者は「筋肉通でしょう。異常音は何もありません」と言う。 これで夫婦共々かなり気が楽になった。 2、3日は痛みが残るかも知れないとのこと。 200シェケル也。

午後はSafranと打合せ。研究所内の人もまばらで、すでに休日の雰囲気が 漂っている。夕方に買物。

先日、我が家を訪れた日本人女性は無事に帰国したようなので一安心である。 私がアラブのポップスにはまっていることを知っていた彼女は、彼女の友達 を通して私にCDを送ってくれた。 Zohar Argovというアラブ色の強いイスラエルの男声歌手だ。 大変興味深いです。 有難うございました。

新聞に信じられない記事が出ていた。 イスラエルの空の玄関であるベングリオン空港は、テルアビブと エルサレムを結ぶ高速道路のそばにあるのだが、ロシアの旅客機が その高速道路を滑走路と見誤って、あやうく着陸しようとしてしまった とのこと。 この飛行機、上空100メートルまで降下してから、管制塔に誤りを 指摘され、慌てて再び上昇する。 最終的には無事に空港に着陸するのだが、それでも指定された 滑走路を間違えたというのがこの話の強烈なオチ。


9月22日(水)

朝起きると、妻が背中の痛みを訴えて起き上がることができない様子。 本人は「寝ちがえただけ」と言って一旦起きたが、起きるとさらに 強い痛みがあるので、再びベッドで横になる。

娘は全くお構いなしで、早く朝食を食べさせろとせがむので、口に パンをつっこむ。 しばらくして妻の痛みはやや治まったものの、とても子供の面倒を見る ことができる状態ではないので、今日は私が一日家にいることにする。

家で仕事をしようかとも思ったのだが、妻の容体も心配だし、母親に 相手をしてもらえない娘が絶えず私にすり寄ってきて、妨害行為を はたらくのでとても仕事は無理。

娘の相手をする覚悟を決めたものの、これが結構大変である。 自分の子供なのに何を言っているのかと思う人もいるだろうが、 日頃、子育ては妻に任せっきりなので、すべてを自分がやろうとすると まだまだ要領がつかめず振り回されてしまうのだ。

妻は夕食の準備ができる程度には回復したものの、原因がよくわからないので まだ心配である。 子育てがいかに重労働であるかを実感し、自分の生活がいかに妻依存型で あるかを認識させられた一日であった。


9月21日(火)

ヘブライ語のレッスン。 ここのところの不勉強がたたって、結構悲惨な状況。 先生にあてられても、まともに文章が読めず、アレフベートもあやふやに なってしまうほど。 反省したので、次回までにはもう少し真面目に勉強しよう(と思うだけかも)。

論文書き。SafranとUlrichと議論。パリティの原稿の校正。 こう書くと、なんだかいかにも充実しているようだが、それぞれさほど大した 内容ではなかった。 今一つ、充実感に乏しい。

イギリスのLeeds大学のHamleyから突然メイルがきて、何だろうと思ったら、 この人はあるレビュー論文を書いていて、私の昔の論文の図を使わせて欲しいとの こと。 こういう経験は初めてだったでの、少し嬉しくなった私は二つ返事で EPSファイルを送ったのでだが、ファイルが読めないというメイルが返ってくる。 別の形式に変換するか、郵送しなければならないので結構手間がかかる。

Hamleyはブロックコポリマーの本を昨年出版しているし、来年には "Introduction to Soft Matter" (John Wiley, 2000)という本を出版予定らしい。 楽しみである。 (この本と私の図は関係ないらしい。)

こちらに来てから読みたくなった日本語の本を、厚かましくも妻の友人に 送っていただくよう頼んでいたのだが、その郵便物が研究所に届く。 有難うございます。

今週末から始まる仮庵祭(スコット)のために、同じアパートに住むユダヤ人が、 ヨム・キプールの終了とともに、庭にテントのようなものを組み立て始めた。 まだ4本の柱しかないが、どうにも説明が難しいので、そのうち画像を載せます。


9月20日(月)

ヨム・キプール(大贖罪日)。 ローシュ・ハシャナーから10日目にあたる。

研究所は完全閉鎖。正門もバリケードがしてあって中には入れない。 それこそ遊ぶこともできないので、家で論文を書く。 夕方、レホボトの大通りまで散歩すると、子供達が車のない車道で 遊んでいる。 夜7時以降に車が動きだすらしい。


路上で遊ぶ子供達

ヨム・キプールといえば、ヨム・キプール戦争(第4次中東戦争)に触れ ないわけにはいかないだろう。 1973年10月6日(大陰暦なので日付が異なる)、 エジプトとシリアは、ヨム・キプールで国全体の機能が完全に停止している 状態のイスラエルに奇襲攻撃をしかけた。 当時戦争の確率は低いとみていたイスラエルは、まさかこの日に限って 敵が襲ってくるとは夢にも思わなかったため、スエズ運河やゴラン高原で 壊滅的な打撃を受けることになる。 18日間に及んだこの戦争で2500人のイスラエル兵が戦死し、 7500人が負傷する。

1967年の6日間戦争(第3次中東戦争)の勝利に酔っていたイスラエル 国民は、ヨム・キプール戦争の被害に大きなショックを受けるとともに、 これを機にアラブとの共存を真剣に考えざるを得なくなる。 まさに、イスラエル国民の価値観を変えた戦争であったと言えるであろう。

こうして実際にヨム・キプールを体験してみると、ヨム・キプール戦争が、 まさに就寝中に強盗に襲われるようなものであったことがよくわかる。 いや、テレビやラジオの放送もないわけだから、それ以上かもしれない。 慌てふためくしかない。 またこれほど国民全体が大切にしている祝日を破壊されたというのも、 相当な屈辱であったことが想像される。

何事も起こらない休日だったが、色々と考えさせられた。


9月19日(日)

シャバットは明けたが、今晩からヨム・キプール(大贖罪日)なので、 今日は半休日で店も12時頃に閉まる。 おそらく先週の金曜日から明日まで4連休という人が多いのだろう。 午前中に研究所に行ってみたが、休日のように閑散としている。 当然、食堂も開いていないので昼過ぎに家に戻る。

今晩の日没から明日にかけて、イスラエル人のほとんどの活動が停止する。 ユダヤ人にとって最も重要な祝日で、さほど敬虔でないイスラエル人も この日の風習に従う。 すべての交通機関が止まり(空港も閉鎖)、テレビやラジオの放送もなくなる。 一般の人も自家用車を使わないので、高速道路を含むすべての道路が歩行者 天国になる。 人々は断食をするため、今日の昼の間にしっかりと腹ごしらえをしておく。

夕方の日没直前に、家の近くのシナゴーグに行ってみる。 家族連れが続々と集まりつつあり、いつものシャバットとは明らかに 違う雰囲気。 (ヨム・キプールはシャバットのシャバットとも言われる。) 男性は白い服を来て、中にはタリート(祈祷用肩掛)を羽織っている人も いる。 手には袋に包んだ聖書を抱えている。 女性や子供も正装している人が多い。 面白いのは、皆さん、運動靴を履いていること。 革靴は贅沢品ということらしい。

6時前あたりからお祈りが始まったようなので、我々も入口から中の 様子を伺ってみる。 男性と女性のいる場所が完全に仕切られていて、それぞれびっしりと 人で埋まっている。 ラビ(司祭)の声に合わせて、全員で祈りの言葉を合唱する。 中には体を前後にゆすっている人もいる。 ユダヤ教の現場を目の前にして、少なからず興奮した。

シナゴーグを出て道路に戻ると、子供達が歩行者天国となった道路で、 自転車やローラースケートなどに興じている。 自転車の乗り方を子供に教えている親もいる。 子供達は大はしゃぎで、一年に一度のお楽しみのようだ。


9月18日(土)

シャバット。 午前中は日本化学会誌の原稿を仕上げる。 午後はレフリーの論文にもう一度目を通す。

夕方に郊外のショッピングセンターへタクシーで行く。 娘のためにおもちゃの鉄琴を買う。 なぜかと言うと、昨晩テレビでBobby Hutcherson(vib)の 演奏をたまたま見たから。 我ながら単純だと思う。 でもこの鉄琴、ピアノの黒鍵に対応するものが無いんですけど。

英字新聞を読み比べるために、Herald Tributeを買ってみる。 Herald Tributeは世界的なニュース扱った新聞で、イスラエルの地方版 としてHa Aretzというヘブライ語新聞の英語版が含まれている。 まだじっくりと読んでいないが、Jerusalem Postよりも写真が少なくて、 記事がやや硬めか。 でもイスラエルにいる間は、やはり少し濃いめのJerusalem Postの方が 面白いかと思う。

送られてきたパソコンが順調に動いていることは先日も書いたが、 これまで使っていたMebius PJ1の内蔵バッテリーの寿命がきてしまった ようだ。 まあ、コンセントにつないで使えば問題ないのだが、そうすると本体に触った 時にびりっと感電することがある。 おそらく家で使っている変圧機(イスラエルは220V)のせいだと思う。 この日記もおっかなびっくりで書いている。

Jerusalem Reportの広告で、Bar-Ilan大学が Virtual Jewish University というネット上の講義を開設していることを知る。 Bar-Ilan大学はユダヤ教色の強い大学で、そこの教授になるためには、 ユダヤ教信者でないと難しいらしい。

早速、アクセスしてみるとユダヤの歴史や習慣、宗教などに関する 講義がこってりと用意されている。 単位の必要なければ、一つの講義が250$。 講義ではムービーや音声、ドキュメントなどの教材の他にメイルやチャットなど 使うらしい。 新しい試みとしてはなかなか面白いと思う。 ユダヤに興味のある人にはお薦めだが、かなりヘビーかも。

日本には放送大学という充実したものがある。 あれがもっと全国で見られるようになるとよいと思う。


9月17日(金)

一週間分の買い物は昨晩済ませておいたので、夕方近くまで 家で静かに時間を過ごす。 昨日買ったJerusalem Report(隔週の雑誌)やJerusalem Post (新聞)の金曜版にゆっくりと目を通す。 (もちろんどちらも英語。)

なんでも、Jerusalem Postの経営者がある時に変わり、 それに反発した腕の良い記者がほとんど会社を出てしまい、 新たに作った雑誌がJerusalem Reportであるそうな。 それ以来、Jerusalem Postの質が低下したらしい。 (私には読んでもわからないが。)

で、Jerusalem Reportはと言うと、結構記事の内容が難しいの である。 新聞では事故などの日常的な記事などが楽に読めるのだが、 Jerusalem Reportの記事は政治やユダヤ社会に関する深い 内容のものが多いため、なかなか読みこなせない。 例えば新年の特集は「イスラエル人はいつ神について考えるか」 などとなっている。 結局、情けないことに広告などをパラパラと斜め読みを することになる。

ただし、その中で目にとまった広告が一つあった。 "American Committee for the Weizmann Institute of Science" の広告で、要するにヴァイツマン研究所を宣伝しているのだ。 海外にこんな組織があることを初めて知ると同時に、 ユダヤ人の世界的なネットワークの具体例を見る思いがした。

研究所の紹介も兼ねて広告の一部を抜粋すると:
For more than 50 years, we have marshaled support for the Weizmann Institute in Israel. Its 2500 scientist, engineers and scientists-in-training are fully engaged in a remarkable agenda of over 1000 research projects to fight disease and hunger, create new technologies, protect the enviroment, and harness alternative sources of energy.

あのー、私の研究は一体どれに対応するのかしら?


9月16日(木)

昨日届いたパソコンは問題なく動いているようで一安心。 日本のパソコンはやはり素晴らしいです。 イスラエルではノートパソコンの普及はまだまだという感じである。

昨日のエルサレムポストの一面には、すべてのデータベースに通用する、 2000年問題のバグの解決法をある素人が発見したと、大々的な記事が 載っている。 その人は27年前に兵役でイスラエル軍にいた頃、6ヵ月間プログラムを 習っただけとのこと。

"Sapir 2000"と呼ばれるこのプログラムの権利はヘブライ大学に属し、 Magic Software Entrprisesというソフトウェア会社と契約を結んだらしい。 実際の2000年問題は数年後に起こることもあるらしく、来年の元日以降 も十分使えると強気の姿勢だ。

一体、このニュースは本当か? 日本でも取り上げられているのだろうか?


9月15日(水)

早速パソコンを受け取りにテルアビブに行くことにする。 秘書の人にヘブライ語で書かれた通知の内容を教えてもらい、私が研究所 で個人的にパソコンを使うことを証明する手紙を用意してもらう。 荷物を受け取りに行く税関を地図で確認すると、4月にテルアビブの大家 さんに連れて行ってもらった場所であることがわかる。

いつもテルアビブ大学に行くときに利用するバスに乗り、テルアビブ市内の 適当な場所で降りる。 そこからタクシーを拾って、予定よりも早く到着。 見覚えのある所なので安心感がある。

通知書を見せると奥から荷物を出してきて、目の前で開封して、中身を 全部出す。 内心、もっと丁寧に扱ってくれよと言いたくなる。 別のカウンターに行かされ、そこで本体価格の17%の税金(消費税?)を払え と言われる。 研究所で用意してくれた手紙を見せてもだめ。 ところが、彼らのコンピュータに送られてきた型のパソコンの情報がなくて、 いくらだったかと聞かれたので、適当に2000ドルと安めに言った。

それにしても、日本円にして3万5千円程度払うことになる。 そんな現金は持っていなかったので、近くの銀行を教えてもらって、 現金を下ろしに行く。 (最近の円高は助かる。) 炎天下を歩くのは結構きつい。 お金を払って、また元の窓口の戻り、ようやく荷物を受け取る。 帰りはレホボトまでタクシーを使うことにした。

研究所に戻って秘書の人に一部始終を話すと、お金を取られたのはおかしいと 言い出し、あちこちに電話をかけて調べてくれる。 結果的には、一旦は税金を払う必要があり、我々がイスラエルを出国する 際に払い戻してもらえる可能性があるとのこと。 後日、また確認してもらうことになった。

夕方、SafranとSchwarzと久ぶりに議論。 やはり議論することは大切、大切。


9月14日(火)

いよいよイスラエルとパレスチナの間で最終地位交渉が始まった。 イスラエル人の典型的な意見は以下のようなものである。

イスラエル人もパレスチナも、ここが自分達の土地だと思っています。 歴史的な事実としては、確かに両方の民族がこの土地に住んでいた過去 があるわけです。 我々は誰でも平和を望んでいます。 もしも今、イスラエル側の土地をパレスチナ側に返還して、必ず平和が 訪れるとわかっていれば、喜んでお返ししましょう。 しかし、約束した分を返せば、必ず彼らはもっと欲しいと言うでしょう。 それは恐らくきりのないことで、最後には我々のものをすべて奪おう とするでしょう。 だから、我々はアラブ人を信用できないのです。

最終地位交渉は2000年の9月までに決着する予定であるが、これに関し ては悲観的な見方の方が多い。

日本から送ってもらっていたパソコンが、テルアビブの税関に到着した から取りに来いという通知を受け取る。

人の薦めもあって、Jerusalem Reportという英語の週刊誌(隔週)を初めて 購入してみる。


9月13日(月)

久しぶりにレフリーの仕事。 よくあることだが、著者の方が良く知っているため、結局こちらが 勉強するはめに。

これだけ専門分野が細分化されてしまった今日では、論文のレフリー制度 というものがどれほど意味があるのかよくわからない。 レフリーの本来の役割は、その雑誌の質を向上させることであろうが、 論文が膨大に増えてしまった今日では、そのあたりも非常に疑わしい。 例えば100年前と比較しても、レフリーと論文の質が平均的に低下している ことは明らかだろう。

昔から思っていたのは、もしもレフリー制度がこのまま続くのであれば、 論文の出版とともに、レフリーの名前を載せたら面白いのではないかということ である。 そうなると結構生々しいことが起こり、日本人的な価値観にはそぐわない かも知れないが、少なくともレフリーはもっと真剣になるだろう。 レフリーだけ最後まで覆面というのは、どうも不公平な感じがする。

レフリーの名前も公表される雑誌が一つくらいあってもよいのでは?。 (もしもすでにあれば教えて下さい。 昔のProceedings of Royal Society of Londonはそうではなかったのな?)


9月12日(日)

ローシュ・ハシャナー2日目。 イスラエルの祝日で、2日間続くのはこのローシュ・ハシャナーだけ。 古代では、新月の現れる日を正確に予測できなかったので、安全のために 2日分とってあったのがその理由らしい。

なんとなく仕事をしようかと思っていたが、今週は車を借りているので、 やはりどこかに出かけたくなった。 テルアビブの海岸までドライブし、オペラセンターのTower Recordsで アラブのCDを物色。 自分は世界中どこへ行っても、このパターンから抜け出せないのかも 知れない。

海沿いのヨドヴァタで再びおいしいオレンジジュースを飲んで帰宅。


9月11日(土)

見てきました、イスラエル博物館のKandinsky展。 ローシュ・ハシャナーには閉まっている所が多いせいか、 以前にここを訪れた時よりも人が多く、ほとんどの 人は特別展がお目当てのよう。 Kandinsky展の会場は人が溢れんばかりで、一つ一つの絵を 見るのも結構大変。

もともと大した審美眼がない上に、ろくな知識もない私が絵の批評 をするのはおこがましいが、敢えて言うならば、良質のフリージャズに 存在する、スピード感、緊張感、硬質感を味わうことができたのかも 知れない。

こんな偉そうなことを書いて、新聞の評論を読んでいたら、 Kandinskyは「音楽を描いているのではない」と明言していたそうな。 個人の印象なんていい加減なものです。

帰りがけに、道路をはさんで博物館の向かい側にある クネセット(国会議事堂)に立ち寄る。 もちろん今日は門が閉まっていて、中に入ることはできな かったが、門の反対側にある巨大なメノラー(燭台)の前で 記念撮影。


クネセット

エルサレムから帰る高速道路からの風景も、かなり見馴れてきた。


9月10日(金)

今日の午前中は、まさに日本の大晦日のようなものだ。 今晩から始まるローシュ・ハシャナーに備えて、多くの 人々が買い物などに出かける。 我々も車を借りて買い物に出たが、レホボト市内の渋滞 に巻き込まれる。 いつも行くスーパーもごったがえしている。

夕方5時近くに、海沿いのアシュドッドとアシュケロン の中間に位置する「ニツァニム」という海岸までドライブする。 ユダヤ教では日没とともに次の日が始まるので、日の入りを 見ることは、日本で日の出を見ることと同じだろうと勝手に 想像した。


ニツァニム

さすがにこの時間には人も少なく、泳いでいる人もまばら。 潮風は涼しく、オレンジ色の太陽が水平線に沈もうとしている。 何度見ても見飽きない、このすばらしい光景とタイミングを、 しばしビデオに収めた。 太陽が消えた瞬間から、ユダヤ暦5760年が始まった。

夜はイスラエルのテレビ番組で、PerlmanがBrahmsのバイオリン 協奏曲を弾いていた。 イスラエルフィルではなく、ベルリンフィルだったので少し 残念だったが、日本のテレビで見るウィーンフィルの ニューイヤーズ・コンサートのような気分を味わった。


9月9日(木)

昨晩、我が家に宿泊した2人は、朝早くエルサレムを目指して 出かけて行った。 我々は子供連れということもあって、体力的に丸一日観光する のは難しい。 若い人達の足を引っ張らない方が良いと思い、今回は敢えて ご一緒しなかった。 (まあ、仕事もあったのですが)

イスラエルでは明日の晩から、ローシュ・ハシャナーという新年の 祝日を迎える。 ヘブライ語で「ローシュ」は「頭」、「シャナー」は「年」 という意味。 ユダヤ教にとって非常に重要な祝日である。

午後には研究所内で、簡単なパーティーがあった。 甘いシャンペンとハニーケーキが振る舞われ、リンゴに蜂蜜 をつけて食べる。 新年が甘い年になることを願ってこのようなものを食べる。 パーティーは10分程度であっさりと終わる。

夜の帰宅後には、同じアパート内に住むドイツ人家庭で、 長男の一歳の誕生日パーティーがあり、家族で参加。 その家のご主人は医者なので、ドイツの医者の話を聞かせて もらった。 以外なことに、ドイツでは医者が余っていて、職にありつけない 人もいるらしい。

昼食でUlrichから嘘のような本当なような話を聞いた。 9月5日にハイファとティペリアで起きたテロでは、 爆弾を仕掛けていたとみられるアラブ系のイスラエル人3人が 死亡した。 これに関して次のような説があるらしい。

イスラエルでは9月3日にサマータイムが終わっているのだが、 パレススチナ人地区ではまだサマータイムが続いている。 そのため、パレススチナ人地区から遠隔操作で爆発させる人が、 時差を忘れて誤った時間(イスラエルでは早い時間に対応する) に爆破させてしまったのではないかということだ。 不謹慎とはいえ、笑ってしまった。


9月8日(水)

日本からの来客がある。 お茶大の某助教授の研究室の出身の女性で、以前に私が研究室をお邪魔した 時に初めてお会いし、たまたま彼女もイスラエルに来る機会があるという ことで、わざわざレホボトまで来てくれた。

昨日、バンコク経由でイスラエルに到着したばかりの彼女は、夕方近くに イスラエル人の友人と一緒に研究所に登場。 荷物を一旦家に置いてから、研究所内のWeizmann(イスラエル初代大統領)の 墓や家にご案内する。 それから、我々が何度か訪れているアラブレストランへ食事に行く。 彼女にとっては、色々な種類のサラダが珍しかったようだ。

家に戻って、ちゃっかり持ってきてくれるように頼んでおいた正露丸と ウナコーワを受け取る。 その上にさらにお土産として日本茶と梅干しをいただいた。 大変有難いです。 昼間中テルアビブ市内を友達と一緒に歩いていた彼女は、さすがに疲れた 様子で、ほどなくして床に着いた。 明日は二人でエルサレムに行くらしい。

今日の感想:こんなに良い学生と仕事ができる某助教授 (-> 報告書受け取りました。ありがとうございます。)が羨ましい。


9月7日(火)

ヘブライ語のレッスン。 今月は幾つか重要な祝日があるため、それについて 先生が説明をしてくれた。

イスラエルの祝日はユダヤ暦で決まっている。 ユダヤ暦は太陰暦(356日)なので、太陽暦と合わせる ために3年に一度閏年があり、閏年には「一月」余分に 加わる。 そんなわけでイスラエルの祝日は、我々の感覚では、 毎年揺らぐ。

今年の場合は、 9月11、12日がユダヤ新年(ローシュ・ハシャナー)、 19,20日が大贖罪日(ヨム・キプール)、 25日〜10月1日が仮庵祭(スコット)、 10月2日が律法の歓喜祭(シムハット・トーラー)と 目白押しである。 それぞれの祝日については、またその時に書きたいと思う。

今イスラエルは年度末にあたり、内閣では来年度の予算を決定しようと している。 それに合わせて、予算を削られそうな分野の人達が一斉にストをしている。 中でも深刻なのはゴミ収集の人達のストで、エルサレムの市場の近くの道路 ではゴミが溢れかえるなどして、衛生上の問題を引き起こしている。

Safranはアメリカから帰国してから、体調があまり良くない らしい。 風邪の後に蓄膿症になって、すっきりしないとのこと。 学部長で忙しい彼も今日はお休み。 学生のDimaも風邪をこじらせて、軽い肺炎にを起こして いるとのことで、要静養。 Tsviはまだアメリカでポスドク探し。 ということで、今日はUlrichと昼食に行っただけ。 まあ、自分の仕事ができてよいのだが、今一つ寂しいよな。


9月6日(月)

新ワイ合意では350人のパレスチナ囚人を釈放することが 決まった。 それに関して、ここ数日、次のような新聞広告が出ている。

Prime Minister EHUD BARAK
We Implore You

DON'T RELEASE TERRORISTS

The Asraf Family, Jaffa
Iris Asraf was murdered by terrorists in Jaffa on 14.12.1990

日本では、新聞を利用して、個人の立場で直接首相に 何かを呼びかけるということは、あまりないのではない かと思う。 イスラエルでは首相公選制をとっており、もしかしたら 首相と国民の距離感が日本よりも近いのかも知れない。

私は5月のイスラエルの選挙を近くで見ていて、首相公選制は よいのではないかと思うようになった。 何となく首相が決まってしまう日本にいる頃は、あまり想像で きなかったのだが、まずなんといっても盛り上がる。 しかも、国民に自分が選んだという責任感が生まれる。

もちろん、首相の所属政党と最大与党が一致しなかったら、 政治運営が不安定になるなどの問題があろうが、日本でも 考えてみる価値はあると思う。 最近、日本の政治には疎いが、民主党あたりが主張してい たような気がする。

論文書き、原稿の校正、プログラム作り。

昨日の日記で、ヨルダン国王の名前を誤ってフセインと書いた ので訂正します。


9月5日(日)

昨晩は、新ワイ合意の調印式の生放送を見るべく、 テレビの前に釘付けになった。 一昨日からすでに予定されていたこととは言え、 イスラエル時間の午後11頃に、バラクとアラファト、 ムバラク、オルブライト、アブドラの5人が会場に 姿を見せると、一気に緊張感が高まる。

調印を終えたバラクとアラファトが握手をする瞬間には、 国際政治の渦の中心を間近で見ているような気がして、 目が眩むような興奮を覚えた。 イスラエルの首相とアラファトが握手をする場面は、 ラビン以来何度か見てきたが、今回はリアルな体験として 非常に強く印象に残った。

バラクのスピーチは、最後の方で英語からヘブライ語に 変わり、神に祈る言葉を述べる直前には、どこに隠して いたのか、キッパを頭に付けた。 もともとのおとぼけ顔のせいか、はたまた始めてのビッグ な行事で緊張していたのか、バラクはその場の雰囲気に 馴染んでいないような気がした。 あと驚いたのは、ヨルダンのアブドラ国王(最近亡くなった フセイン国王の息子)の英語が、めちゃめちゃ達者であったこと。

すでに指摘されている通り、今回の合意はネタニアウ政権で 凍り付いてしまった和平プロセスを、再び軌道にのせたに過ぎず、 両者間に山積みされた多くの困難な問題を考えると、 正にこれからが正念場である。 それ以外にも、和平プロセスを阻止するために、様々な 妨害行為が発生するであろう。

と思っていたら、早速今日、ティベリアとハイファ(地図参照)で 車に仕掛けられた爆弾が爆発して、3人が死亡した。 テロの失敗のようで、死亡したのはすべて犯人のようだ。 中東の政治情勢は時々刻々変化していく。


9月4日(土)

昼食後、レホボト近郊の観光地をリストアップした紙を研究所から もらっていたことを思い出し、早速引出しの中から取り出してきた。 幾つかの中で「レヴィディム」というキブツが挙げられていて、 博物館やカフェテリア、貴金属店、公園などがあるというので、 タクシーで行ってみることにした。

始めてのキブツということで、大いに好奇心を燃やして訪れたのだが、 到着してみると誰もいない。

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とりあえず、考古学博物館に入ってみるが1、2分で見終ってしまう内容。
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10分程度キブツ内を歩いてみたが、何も見るものもないし、遊ぶ所もない。 それより、果してこのキブツは機能しているのだろうかと思わざるを得ない状況。
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仕方ないので、唯一開いているカフェテリアに入ってお茶を飲む。 ここには、少し人がいたので安心した。


キブツ・レヴィディム

それでも何もすることがないので、カフェテリアで帰りのタクシーを呼んで もらうことにする。 店の人は電話番号を知らないらしく(これも恐ろしい)、わざわざ114で調べて くれる。 それから3ヶ所に電話をかけてくれたものの、この近所でシャバットに動いている タクシーはないという。 帰れない?

仕方ないので私がレホボトのタクシー会社に電話したら、どういうわけか 来たときの運転手と話すことができ、再びレヴィディムまで来てくれるという。 助かった。 帰りの車中で運ちゃんと話していて、彼も我々がどうしてこんなキブツに来るのか 不思議だったそうだ。 キブツはちゃんと調べてから行く必要があると学んだ一日であった。


9月3日(金)

今日の午前3時から、イスラエルはサマータイムが終わった。 つまり、午前3時に時計を1時間戻して、午前2時にする。 昨晩の就寝前に時計を早めたので、普段より1時間余計に寝た。 日本との時差が7時間になる。 そう言えば、日本でサマータイムを導入する話はどうなったのかしら。

お昼前から妻は再び合奏のために外出したので、私は家で仕事を する。 翻訳の仕事が一段落して、少しだけ肩の荷が降りる。

この日記が、とある物理学者の目にとまったようで、早速メイル を頂いた。 その物理学者は、人を引き付ける文章を書くのが大変うまい方で、 はっきり言って私には冷や汗ものだった。 しかし、心優しいその方は、「この日記をまとめて本にすれば、 読む人がいるのではないか」と言ってくださり、正直言って、 私は非常に嬉しかったです。はい。

もちろん、そんなことを真に受けては、それこそ世間の笑い者 だろうが、長年自分の日本語の文章に対してコンプレックスを もってきた私としては、そのお言葉だけで大いに勇気付けられた のです。 語彙が貧弱な上に、誤字脱字が多く、気の利いた表現法をほとんど 知らない。 (イスラエルに国語辞典を持参しなかったのは失敗だった。) テンの打ち方さえよくわからない。 そんなこともあって、日記を公開することは、正に人前で裸になる ような心境なのです。

それでもどういうわけか、日記を読んでくれる人がいるようで、 本当に有り難いです。 先週は、1日のアクセスが平均して50件以上ありました。 どういう人が見てくれているのか、もはや私にも把握できません。

話題をイスラエルに戻して、


9月2日(木)

約2週間ぶりにUlrichもアメリカから戻ってきた。 お互いに色々と積もる話をするために、一緒に昼食に行った。

彼の参加した「Pincusを囲む国際会議」は、相当偉い人達の 集まりだったようで、ポスドクや学生はむしろ少なかったらしい。 そのため、内容はかなりハイレベルで充実していたものの、 1週間弱の間に80近い講演があったため、疲れ切ってしまった とのこと。 中ではNelsonとWittenの話が面白かったそうだ。

傑作だったのは、Helfrich大先生は例によって、膜の剛性率が 「正」に繰り込まれる講演をしたそうだ。 講演後、誰も反応しない中、Nelson一人が 「あなたは本当に「正」の繰り込みを信じているのか? 私は信じない(=「負」の繰り込みが正しい)」 と言ったそうな。

Helfrich大先生は最近、四面楚歌状態で、いかにも気の毒だが、 私は最終的にはHelfrichが正しいということになるのでは ないかと予想している。 Helfrichの仕事には、Nelsonのような華やかさや器用さは 決してないが、Nelsonよりは一段深いレベルで考えている のは間違いない。 (自分も理論物理学者なのだから、自分で内容を判断しろ、 という突っ込みは、ここではなしです。)

Helfrichの奥深さは、常人にはなかなか計り知れないのだ。 はっきり言ってしまえば、Nelsonの名前は物理の歴史に 残らないが、Helfrichの名前は永遠に消えない。

Ulrichは相当お疲れのようだったが、今日ドイツから戻って くる奥さんと子供を空港に迎えに行くため、昼食後、嬉しそう に家へ帰った。

夕方、買い物。 "The Twentieth Century in Eretz Israel (a pictorical history)"という興味深い本を購入した。 タイトル通りに、今世紀のイスラエルの激動の歴史を、 写真と年表で追ったもの。 A4サイズで600ページを超える分厚い本なので、 買うのを少し躊躇したが、立ち読みしているうちに思わず 引き込まれてしまった。 これで2000円は安い。 それに比べて日本は本の値段が高い。


9月1日(水)

昨晩、少し良い着想があったので、午後はずっと考えたり論文を 読んだりしたのだが、どうもすっきりとはわからない。 またいつものボツネタになってしまうかも知れないが、もうしばらく 温めてみようと思う。

9月になったということもあるし、髪が長くなってきたので、いつもの ロシアの散髪屋に行った。 これまでに2回私の髪を切ってくれた人が今日はいないので、少し不安になる。

私の前の順番のお客さんはロシア語を話す「おばさん」だった。 こちらには、日本のような理容室と美容室の区別はないので、驚くことでは ないのかも知れない。 しかし、明らかに女性用のおしゃれなヘアドレッサーはそれなりに見かける。 日本の理容室に女性がいるような気がして、どうしても違和感が拭えない。 まさか髭を剃ってもらうわけではないだろうな。

どうするのか見ていると、いきなりバリカンで切り始める。 女性はバリカンを使わないものという先入観が私にはあったので、ますます びっくりする。 男性よりも多少丁寧にやっているような気はしたが、それでも15分程度で 終了。 おばさんは満足そうだった。

私の順番になると、例によってトイレットペーパーを首に巻かれ、やはり バリカンで始まる。 私は眼鏡をはずすと前の鏡が見えないので、どのように切られているかわからず、 不安なものもあったが、最後はドライヤーの風で顔についた髪を払っておしまい。 出来上がりがそんなに悪くはないのが不思議だ。

そう言えば、今日オフィスに突然、銃を持った兵士が入って きたので何事かと思ったが、どうやら隣の部屋の女性研究者の 息子さんだったらしい。


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