イスラエル育児日記


9月30日(木曜日)

平日。 明日のピクニックの為に、人参ケーキを焼く。 3階の日本人の奥さんに教えてもらったレシピである。 気が利く彼女は、レシピだけではなく、 泡だて器、香辛料、ブランディーなど一式貸してくれる。

お陰で、泡だて器を改めて見直すことになる。 これは便利なものである。 こちらに来てからケーキ作りの際には、フォークを3本束ねて 使っていたのだが、やはり本物の泡だて器にはかなわない。

夕方、グレゴーとその仲間達と一緒に合奏をする。 今日は非常に蒸し暑かったせいか、C線がやけに狂う。 が、楽しいひとときを過ごす。 グレゴーのところは、今週末から彼の両親がドイツより来て、 皆でネゲブ、ヨルダンのペトラ遺跡、エジプトのシナイ山に行くと 張り切っている。 彼の頭の中は、旅行の計画でいっぱいらしく、 休憩時に寸暇を惜しんで、皆に意見を求め、旅行計画を練っていた。

次回は、我々のレパートリーを広げる企画を立てた。 チェロのダフネさんは、11月中旬に出産予定、バイオリンの ロッホスさんは10月末にドイツに帰国予定なので、 このカルテットも、もうすぐ解散しなくてはならない。 名残惜しいものがある。

晩に、明日のピクニックの為にチョコレートケーキを焼く。 なかなかうまく焼けたと、自我自賛。 3回の日本人の奥さんのレシピが、 抜群に良いというだけのことなのだが・・・。 簡単、美味しい、珍しいと三拍子揃ったレシピ集なので、 いくつも書き写させてもらう。

明日のピクニックでは、英語が上手く話せるか、 少しどきどきする。


9月29日(水曜日)

東向きの部屋から、ガリラヤ湖に昇る日の出を見たいと思っていたら、 運良く5時頃目が覚めた。 そっと、カーテンを開けると、眼下のガリラヤ湖は静かに波打ち、 ゴラン高原の上の空がうっすらと色づいている。 窓を開けると、波の音が静かに聞こえ、空気は新鮮でひんやりとしている。 しばし床に座り、1人で朝焼けを鑑賞する。

静かで美しい朝焼けを眺めながら、小さい頃の家族旅行の思い出に浸る。 あの頃、母親が旅行中、小さな事を実に大切そうに味わっていた姿を、 ふと思い出した。 こうして自分が主婦になり、母になり、 家族旅行がいかに、主婦・母親にとって、 楽しいひとときであるかが分かった。 まだまだ駆け出しで、さほど忙しくない私ですら、 このような静かな景色が心に染み入り、リフレッシュされる。

日の出は早く、そして強烈である。 少しでも太陽が地平線から出てくると、まぶしくてとても直視できない。 遮光性のカーテンを、最大限ひき、光を遮り、起床時刻までもう少し休む。

さて、お待ちかねの朝食である。 衣も目覚め良く、ご機嫌で食堂に向かう。 食堂はすでに大勢の泊まり客でごった返している。

セルフサービス式の朝食である。 数種類のパン、冷たいココア、オレンジジュース、グレープフルーツジュース、 紅茶、コーヒー、ヨーグルト、シリアル、ジャム、蜂蜜、数種類のチーズ、 サラダ、トマト、ゆで卵、卵焼き、魚のマリネ、メロン、グーレープフルーツと 盛り沢山である。

早速、3人で腹ごしらえを始める。 衣は、両親よりもテンポ良く、しかもバランス良くきれいに平らげた。 1歳6ヶ月にして、既にバイキングの「つぼ」を、 しっかりと押さえている。 これだけの栄養と分量を摂取すれば、日中少々道に迷い、 昼食を食べ損なっても大丈夫だろう。 全く、食べること関しては、頼もしい子である。

絶景の部屋を名残惜しみながら、ホテルを後にする。 車をガリラヤ湖に沿って、北に走らせる。 マグダラのマリアのゆかりの地、マグダラ(ミグダル)で途中下車し、 湖のほぼ北の端に位置する、カペナウムを訪れる。 ここは、イエスが幾つかの奇跡を起こしたと言われ、 聖書にも何箇所か記述があるらしい。

半ズボン不可と言われ、苦肉の策で、荷物の中からカーディガンと シャツを引っ張り出し、腰に巻く。 準備の良い観光客は、長ズボンを持参して、前の駐車場で半ズボンの上から 長ズボンをはいている。 旅行者は、かさばらない大き目のスカーフなどを持参すると、 何かと便利かもしれない。

とにかく暑いので、見学をささっと済ませ、売店で凍った水を買い求め、 衣の水分補給をし、車に戻る。

更に車を走らせ、パンと奇跡の教会を訪れる。 小さく、明るい教会の内部には、幾つかのモザイク画が残っている。 聖壇の前には、パンの入った籠と魚のモザイク画がある。 (夫の日記の画像参照)

ガリラヤ湖を背に、山道をぐんぐんと上がっていくと、山上の垂訓教会がある。 観光書の写真とほぼ同じく、大変に美しい。 しかし、残念なことに丁度昼休み中で、中には入れない。 教会周辺からの眺めは最高で、ガリラヤ湖を見下ろし、 聖書の世界を実体験しているような気分になる。 信者ではない我々には、もったいない体験である。

ガリラヤ湖を後にし、地中海に向かい、 アッコを目指し西に車を走らせる。 途中の景色は、今まで見たことがない荒涼とした風景である。 「地球をえぐった」と言いたくなるような地形の 片隅に、人家が「へばりついて」いる。 いやはや、人間はどこにでも住むものだ。

アッコまでは、ものの1時間ほどで辿り着く。 が、アッコは我々の「まだ」苦手とする、アラブの町なのだ。 せっかくなのでと、観光モードに入ろうとするが、 どうも生理的に「まだ」受け入れられない。 ということで、旧市街の市場通りを突破できずに引き返し、 入り口付近のモスクを見学するにとどまる。

しかし、モスクの見学は初めての我々にとっては、 これだけでも貴重な経験だった。 丁度、お祈りの時間が終わったらしく、靴を履いて出てきた 男性達がいなくなってから、券売所のお兄さんが入場を許可してくれる。

わくわくしながら建物に近づく。 中には一人残って祈っている青年がいて、 若いのにもかかわらず、朗々と良く通る声で祈っている。 モスクの窓は全て開け放たれ、 風が通って気持ちが良い。 床にはじゅうたんが何枚も敷かれ、壁や天井の装飾は 明るいモザイク模様、くっきりとしたコバルトブルー地に 白いアラビア語が描かれている。 天井から下がったシャンデリアが風で揺られ、風鈴のように 涼しげな音を奏でる。

とにかく気持ちが良い空間なのである。 実に開放的なのが印象的。 衣は、シャンデリアと、ドームの一番上に見え隠れするプロペラに 気を取られている。 今まで、幾つかのモスクを脇にしてきたが、 どれも寂れ、すでに廃墟と化し、良い印象を持てなかったのが 正直なところだが、 初めてのモスクの内部に、意外にも好感を持った。

アッコを出発する前に、路上で売っていた柘榴ジュースを飲み、 のどを潤す。 意外と甘いことに驚く。 ちなみに、柘榴は、イスラエルの「7つの特産」の一つである。

夕日を左手に見ながら、ハイファの町を抜け、カイザリア、テルアビブ を高速で走り、レホボトに帰る。 レホボトに着くと、やはりほっとする。

新しい景色を満喫し、聖書にゆかりのある土地を見学し、 楽しく充実した2日間であった。 あー、「観光」したー!


9月28日(火曜日)

昨日借りた車が良い車なので、ついでに、伸ばし伸ばしになっていた 夏休みを取り、泊りがけの旅行をしようということになる。

目的地はガリラヤ湖。 早速、以前から目星を付けておいたホテルに予約を入れる。

お昼前に出発をし、テルアビブ、カイザリアを高速で北上し、 内陸に位置するガリラヤ湖に向かって 東の方角へ車を走らせる。 北上する道は、以前通ったことのある道だが、 東へと向かう道は初めての経験である。 車窓からの景色は、どきりとするような力強いものだ。 前景には一面に広がる綿花畑、遠景には切り立った岩肌が強烈な台地。 空は雲一つない青空。 日差しは、真上から容赦なく鋭くさしてくる。

こうした風景の中をしばらく走ると、なだらかな丘陵地帯、緑の谷が見えてくる。 ガリラヤ湖はもうすぐだ。 と、突然、左手に湖水が見える。 海抜0メートル以下に位置するからか、かなり湿気があるらしく、 一帯が薄いもやに包まれている。

どんどん車で下って行くと、はっきりと青色の湖面が見えてくる。 美しい! やはり、緑と水のある風景は心が和む。

予約を入れたホテルのロビーは、観光客でごった返している。 ホテルのプールで泳ぐため、水着姿の子供達がはしゃぎ回る。

部屋に入り、窓からの景色に思わず歓声をあげる。 大きな窓からは、一面、ガリラヤ湖を見渡すことができる。 青い空、その青さを映したガリラヤ湖、そして空と湖の間には、 切り取られたような直線の地平線を持つゴラン高原が横たわる。

その色彩の単調さ、地形のシンプルさに加え、広々とした開放感に感動。 ガリラヤ湖の美しさもさることながら、ゴラン高原と 向き合っている事実に心を動かされる。 政治的に極めて複雑なゴラン高原を、純粋に「景色」として 鑑賞する贅沢。

夜は、100パーセント正しい観光客となり、 セント・ピーターズフィッシュを食する。 淡水魚の割に、臭みがなく美味しい魚で、3人でパクパクと平らげる。

ホテルの部屋より、湖面に白く長い尾を垂らし昇っていく月を眺める。 なんと美しい眺めだろう。 家族3人でこうして恵まれた一夜を過ごし、特上の贅沢をしみじみと味わう。


9月27日(月曜日)

久しぶりにウェンディーさんから電話がある。 午後に、遊びに来ませんかとのお誘いである。 残念ながら、今日は夕方から出かける予定なので、 今日のところはお断わりする。

夕方から、レンタカーで、近くのベイト・シェメシュ(太陽) という名前の村のキブツに、 スーコット祭りに行く。 このお祭りは、エルサレムポスト(新聞)が主催したもので、 売上金で高齢の移住者の為に、 リフト付きのバン(車)を買う目的で開かれた。 ということで入場料は、大人1人20シェケル(600円)。

閑散とした雰囲気を覚悟して行ったのだが、 意外や意外、英語を話すユダヤ人達でごった返している。 それも、それぞれ子供を山のように連れてきている。 それにしても、ユダヤ人は子沢山である。 乳母車に寝た赤ちゃんを押すのは、もう既にお腹の大きいお母さんである。

子供用のアトラクションが 幾つも行われているメイン会場の脇には、 ハンドクラフトの出店会場が用意されている。 ここが、私にとっては大変に面白かった。 素人の作品だと思っていたが、それぞれ、エルサレムなどに 個人の店を構える人々が、やる気満々で様々な品を売っている。 その多くはユダヤ的な品物である。


スーコット祭・ハンドクラフト展

キッパや絵画、装飾品、本、美術品、楽譜、テープ、などなど目移りしてしまう。 我々も、こちらに来てから初めてと言って良い「本格的な買い物」をした。

6時になると、祭りは終わる。 薄暗い中を、臨時駐車場(収穫後の畑)まで戻り、 続いて、 町の中の「ロック・ブルースコンサート」会場に向かう。 しばらく道に迷い、幾度か住民に道を尋ね、ようやく会場に辿り着く。

驚いたことに、この会場も人で賑わっている。 キッパをつけ、黒いズボンに白いシャツ、ひげの男性や、 ユダヤ人特有のくるぶしまで隠れるロングスカートと、 帽子を被った女性達が、がんがん鳴るロックミュージックに合わせ、 体を揺らし、わた菓子をほおばる姿は何とも言えない光景だ。 彼らも、このような世俗的な享楽も「たしなむ」のかと、変に感心する。 衣は大喜びで芝生を駆け回る。

先ほどのキブツ会場で買い損なった、 イスラエルの子供の歌の楽譜を購入する。 店主のお母さんが、丁寧に相談に乗ってくれ、色々と楽譜を見せてくれる。

今日は、思いがけず楽しい数時間を過ごすことができた。


9月26日(日曜日)

夕餉の支度をしていると、電話が鳴る。 慌ててガスを止め、電話口に走る。

「もしもし、・・・、もしもし、・・・。」 国際電話特有の、ワンテンポ遅れた返事が返ってくる。 日本の母からだ。

最近の父親の様子などを報告してもらう。 4年前からアルツハイマー病と共存している父は、最近、イチョウの葉の成分を 服用し始めてから、偶然かもしれないが、少し「言葉」が戻ってきているらしい。 例えば、今までは、「雨」のことを「水」と言っていたが、先日「雨」と言う事が できたそうだ。 また、興味を失っていたテレビも、少し見ることができるようになり、 映っている場面を指し、「どこ?」と母に尋ねるらしい。 そして、「タヒチよ。」などと教えると、しばらくして、「タ・ヒ・チ・・・」と 繰り返すそうだ。

明らかに病気が進行しているのは、紛れも無い事実なのだが、 こうした些細なことの一進一退が、 我々身近の者には嬉しかったり、悲しかったりするのだ。 これから少しリハビリの意味で、字の読み書きの練習をすると言っていた。

父は元気な頃は、国内・海外出張先から、非常にまめに絵葉書を送ってくれた。 家族のみならず、我々の友人や親戚などにも送っていたようで、先日 デンマークを旅行した友人が、 「昔、あなたのお父さんが、クロンボー城(デンマークにある、 『ハムレット』の舞台とされている城)から 絵葉書を送って下さいました。」と、旅先から便りを送ってくれた。 リハビリの一策として、久しぶりに父宛てに絵葉書でも送ってみよう。

まだまだ父の病状が良かった頃は、 九州から東京の実家にファックスを送ることで、 父とのコミュニケーションを図っていたのだが、 病状が進行すると共に、だんだん読むことが難しくなってきたらしく、 本人からやんわりと断られて依頼、父宛てに「字」を送ることが、 かえって父を「脅迫」するような気がして躊躇していた。

母は、以前は全てを自分で背負い込み、髪振り乱して介護に明け暮れていた。 勿論、地理的に離れてしまっている私達夫婦は、 何も協力することができず、 ただただ、彼女のパワーに驚嘆し、同時に感謝するのみなのだが、 何よりも、いわゆる「共倒れ」を危惧していた。

しかし、この数ヶ月の間に、訪問看護、公的ヘルパー、デイケアサービスなどの サービスを取り入れるようになり、多少母の負担も軽減されたようである。 私のように物理的にも、また、悲しいことではあるが、ある意味では精神的にも、 距離をおいてしまった人間にとっては、これらのサービスの導入は「当然」であり、 「即・必要」と考えがちだが、介護当事者にとっては、必ずしも単純なことではなく、 いざ実行というまで、幾つものハードルを越えなくてはならないようだ。

身内の介護というのは、どうしても無我夢中になり、 徹底的に、かつ献身的にしてしまう傾向があると思う。 これは自然の姿である。 しかし、共倒れしてしまっては病人にとっても、介護者自身にとっても、また、 彼らの周囲の人達にとっても望ましい姿ではない。 何事にも、バランスが大切のようだ。

実際には介護に何の手も出していない私が、 このように理屈をこねまわしていても、 単なる「机上の空論」に過ぎず、かえって、 世の介護当事者たちの気分を害するような気がしてきた。 ということで、今日の理屈こねこねはこれにておしまーい!


9月25日(土曜日)

のんびりとした一日を過ごす。

遠藤周作の「イエスの生涯」を読み始める。 今週始めに、友人が文庫本を数冊送ってくれたので、 久しぶりに読書モードに入ることにする。

昼食後、ベッドに横になりながら読んでいたら、案の定眠ってしまい、 夢の中に、イエスや洗礼者ヨハネなどが登場した。 なんと真面目な夢か!

夕方散歩に行こうと支度をしていると、 ドイツ人のウーリックが、息子のデービッドを連れて散歩に誘いに来た。 途中でウクライナからの母娘も合流して、研究所に連れ立って出かける。

出発の前に、スカーの写真を撮らせてもらう。 安息日なので一応気を遣い、許可を得てからの撮影。 勿論人物はなし、建物だけの写真。 スカーの内部は、花や七夕の吊り飾りのような物、絵などで飾られているが、 テレビなどで見るものよりもはるかに地味な「内装」である。


スカーの内部

夜、入浴時に衣の散髪をする。 前髪が少し長くなっていたので、すっきりとする。 が、ますますコメディアンテーストの濃い顔になってしまい、 お父さんは内心泣いているのだろう。 私はと言えば、すっきりとして満足するのと同時に、 我が子ながら、その余りの滑稽さに大笑いをしてしまう。

世のお母さん達は、どうしてあのように上手にカットができるのだろうか。 そう言えば、私のカットの腕の悪さは、今始まったことではないのだ。 弟が高校生の頃、夏休み明けに、彼の散髪を面白半分にしたことがある。 が、結果は悲惨で、もみあげに一円玉大のパッチのような跡が残ってしまい、 苦肉の策で、数日間、 パッチ状の毛の薄い部分を眉墨で塗り、登校してもらった記憶がある。

衣も、思春期になれば、決して私に鋏を握らせないようになるに違いない。

先日の、「コール・ニドレイ」の作曲家は、マックス・ブルッフであることが 判明。 全くのハズレ。 恐るべし、私の記憶力・・・。


9月24日(金曜日)

復活。 と言っても、用心に越したことはないので、 周囲の忠告を守り、 80パーセントを心がけ過ごしている。 なんせ、私にはまだまだやるべきことが多く残されているのである。 今、背中や腰を痛めてしまっては困るのだ。

遅い朝食を食べていると、グレゴーが様子を見に来てくれる。 カードとクッキーの御礼を言う。

衣は、足を数カ所蚊に刺されてしまったので、掻かないようにと 長ズボンをはかせ、その上からワンピースを着せる。 この上なく、変な格好で一日を過ごす。

たまりにたまった洗濯物を午前中に済ませる。 洗濯場で、2階のブラッハのご主人に会う。 赤ちゃん誕生のお祝いを伝える。 男の子の名前を聞くと、「ミナハ メンデル」というらしい。 聞きなれない名前なので、2〜3度聞きなおす。 これも正しく聞き取れたかは、極めて怪しい。 ユダヤの名前だというので、帰ってから辞書で調べてみるが 見つからない。

外のスカーもすっかりと出来上がっている。 先日は4本の柱だけだったのだが、壁の代わりにじゅうたんのような 布が垂れ下がり、屋根は椰子の葉で葺いている。 屋根は必ず椰子の葉を使用しなくてはいけないらしく、 今日は、皆はしごを使って、庭の椰子の木から葉をそぎ取っている。


9月23日(木曜日)

昨日よりはだいぶ調子が良くなった。

朝一番に、3階の日本人のご主人より電話をいただく。 来週になるとスーコットの休日に入り、病院の開業時間も不規則になるので、 一応、今日中の受診を勧められる。 それまで、受診するかどうか迷っていたのだが、彼の一言で気持ちが固まる。

早速、昨日グレゴーに教えてもらった医者に連絡をする。 生憎、その医者は留守中だったが、2件の医者を紹介してくれる。 話はとんとん拍子で進み、すぐに予約を入れ、タクシーでレホボトの南に住む 医者の家に向かう。

新しい振興住宅地の中の一軒の玄関先に「ホームドクター○○」、 と看板が下がっている。 「あー、ここだね。」などと言っていると、中からキッパを付けた 恰幅の良い背の高い医者が出迎えに出てくれる。 家の中からは、子供が弾いているのだろうか、 「サウンド オブ ミュージック」の「私のお気に入り」が流れてくる。

もう慣れっこになった、この国の「ホームドクター」の慣例で、 診察室というよりは、書斎といった風な部屋に通される。 準備してきた、昨日からの経過と昨日からの処置を書いた紙を渡す。 幾つかの質問の後、聴診器で背中と胸の音を聴く。 血圧を測って、何も異常は見られない。

診断はやはり、「寝違え」ということになる。

明るい感じの医者、分かりやすいイギリス英語、問題がなかったということで、 一気に気分が軽くなり、ほっとする。 きっと夫は、私以上にほっとしたことだろう。

夕方、アンジェリカとグレゴーからお見舞いのカードとクッキーが届く。 夜、3階の日本人夫婦に御礼を言いに行くと、 無理をしないようにと優しい言葉をかけてもらう。

普段、病気と全く縁が無い私は、今回、 家族や隣人たちから適確なアドバイス、手助け、 親切、優しさを一気に受け取り、 すっかりと幸福の飽和状態になってしまった。 健康であることは大切なことだが、それに慣れてしまった私は、 知らないうちに鈍感な人間になっていたようだ。

少々、青臭い結論だが、今回の不調のお陰で、 自分は一人で生きているのではないということを実感した。 そして、いつも強がりを言っている自分を、久しぶりにかえりみた。

皆さん、ご心配をおかけしました。 そして、色々とご親切ありがとうございました。


9月22日(水曜日)

朝、目覚めると、背中が痛く、動くことができない自分に気が付く。 どうやら寝違えてしまったようだ。 仕方が無いので、しばらくベッドに横になったまま、 少しずつ動いて体をほぐす。

衣の世話をするのは、とうてい無理なので、夫に一日家に居てもらい、 衣の世話を頼むことにする。 横になって休んでいるうちに、だいぶ調子は良くなった。

3階の日本人のお医者さんに相談をすると、 すぐに湿布薬と鎮痛剤を持ってきて下さる。 ありがたい。 湿布薬も鎮痛剤も初めての経験である。 これで、いかに私が普段、健康な人間であるかがお分かりになるだろう。

夫も、四苦八苦しながら衣の世話を一生懸命にしてくれる。 夕方は、衣に引っ張られて公園にも行ったそうだ。 慣れない育児で、さぞかし疲れたことだろう

3階の日本人の夫婦は、日に何度も電話を入れて様子を聞いて下さる。 買い物をしましょうかとも申し出て下さる。 おお、なんて親切なのでしょう!(思わず、演劇調の感嘆文になってしまう)

夕方には元気も出てきたので、夫の助けを借り、 栄養たっぷりの夕食を作り、3人で揃って食べる。

夜、アンジェリカより「明日、レクリエーションセンターに一緒に行かないか。」 との誘いの電話が入るが、不調なので断る。 ご主人で医者のグレゴーが、以前アンジェリカがかかった医者を紹介してくれる。

皆の親切を暖かく感じながら、今晩は寝違えないようにと慎重に寝床に就く。


9月21日(火曜日)

ヘブライ語のレッスン。 今日はデビが休み。

来週のスーコット(仮庵祭)の説明などで、授業が始まる。 今週末から10月の初旬まで、学校や幼稚園が休みになるので、 来週のレッスンもお休みにすることにした。

衣は、昨晩珍しく夜中に起きて、少々寝不足ということで、 いつもに増して授業中い機嫌が悪く、レッスン後も3時間以上 たっぷりと昼寝をした。 お陰で私はゆっくりと日記を書いたり、3階の日本人奥さんに借りた ユダヤの休日の本を読んだり、昼寝をしたりと 有意義に過ごすことができる。

昨晩の内に、宿舎の入り口付近に、 スーコットの為のスカー(仮庵)の骨組みが建てられた。 ブロックを台にして、その穴に木材を差込み四角に建てる。 今日はそこまで。 ヨム・キプール明けの晩から、 土曜日のスーコット当日までに、少しずつ建てていくそうだ。 どのような物ができあがるのか楽しみである。


9月20日(月曜日)

ヨム・キプール。 昨日に続きメディアはストップ。 交通機関もストップ。 新聞も休み。

ということで、家で静かに過ごすことにする。 夫は自宅で仕事をする。 衣とベランダで遊んだり、絵本を読んだりする。 明日のヘブライ語に備えて勉強をしていると、衣が介入してくるので、 ノートの余白に衣の好きな絵を描いてやる。 ウサギ、星、時計、手を振るウサギ、トマト、船、などなど私の下手な絵でも、 それなりに楽しんでくれたようだ。

夕方、涼しくなってから散歩がてら、ヘルツェル通りに出る。 昨晩同様、空っぽの車道では子供達が自転車で遊んでいる。

偶然に、3階の日本人家族に出会う。 更に偶然に、彼らが話していたのが日本人の老夫婦とその娘さん、 イスラエル人のご主人だということが判明。 この狭いレホボトで、計7人の日本人の大人が一同に会したことになる。 イスラエル人のご主人は合気道を教えているそうで、 日本人の奥さんと一緒に、最近レホボトに引っ越してきたそうだ。

結局、3階の日本人家族とたっぷりと話し込み(近くに住みながら、普段、 ご主人と話すことは殆どない)、6時過ぎに皆で揃って帰途につく。 昨晩は、手巻き寿司を食べたそうで、日本の回転寿司や蕎麦の話題になる。 こちらでの食生活に不満は無いのだが、 やはり、蕎麦、寿司などという単語は魅力的に聞こえる。

ユダヤ人達が一生懸命に断食をしている時に、 全くふさわしくない話題で不謹慎でした・・・。

食後、再開したテレビをつけてみる。 ヨム・キプールに合わせての放送かどうか はっきり分からないのだが、第二次世界大戦中の、 ワルシャワ・ゲットーでの反乱を題材にした "The Wall" という映画を観た。 反乱という意味の uprising という単語は、エルサレムの ヤド・バシェム博物館(ホロコースト博物館)、を見学した際に覚えた言葉だ。

特報で、台湾での大地震のニュースを報じている。 最近はトルコ、ギリシャ、台湾と大きな地震のニュースが目に付く。


9月19日(日曜日)

今日はヨム・キプールの前夜である。 ヨム・キプールとは日本語には「大贖罪日」と訳されている。

身に付いた罪を水に捨てるという、象徴的な行為が行われ、 川、湖、海の前で、ユダヤ人達がポケットをひっくり返し、「罪」を 捨てる姿が見られる。 先日、テルアビブに行った際に、海辺で一塊の人々が祈祷書を持って海に向かって 並んでいたのは、「それ」だったのだろうか。

ユダヤ暦では、日の入りと共に新しい日がスタートする。 従って、今晩の日の入りでヨム・キプールが始まる。 ヨム・キプールはユダヤ人は25時間の断食をする。 従って、今日一日はそれら諸々の準備に費やされるらしい。 丸一日続く断食の前に、家族でたっぷりとした食卓を囲む。 その際に、死者を追悼する為の特別のろうそくが灯される。

食事は、新聞の料理欄によると、チキンスープ、ゲフィルテ・フィッシュ (甘いつみれのような物らしい、イスラエルでは鯉のすり身を使うそうだ)、 トウモロコシ粉で作った「何か」、甘い食後、 などを食べるようだ。 25時間の断食を控え、味付けは薄味にする、というようなことが書いてある。 料理欄からも、その国の文化が垣間見られる。

食事が終わると、テーブルクロスは新しい物に換えられ、祈祷書が置かれる。

日没の頃に、ヨム・キプールの特別の祈り「コール・ニドレイ」が シナゴーグで行われる。 人々は白い服に身を包み、運動靴や突っ掛けのようなサンダルという少々 アンバランスな出で立ちでシナゴーグに向かう。 運動靴を履く理由は、シナゴーグ内で音がしないように、という説と革製品は 贅沢品とみなされるので、運動靴を履くという2種を耳にした。

5時過ぎに、近くのシナゴーグまで散歩がてら、遠めに雰囲気を掴む為に出かける。 一応、信者お気分を損ねないように、半ズボンとティーシャツから、紺色のスカートと ベージュのブラウスという、控えめな服装に着替える。 道に出ると、まだ5時過ぎだというのに、 車の通りは普段よりもぐっと少なく、 歩道には、日没後に空になる車道で遊ぶ予定の、子供達が自転車やローラースケートを 装備し、待っている。

その脇を、思い思いの白い服、もしくは地味ではあるが、こざっぱりとした服に身を包み、運動靴を履いた人々が、一人、二人、三人と連れ立って、 特製の袋に入った祈祷書を小脇に 抱え足早に過ぎていく。

人々の流れについて行くと、大きな門に辿り着く。 中には、学校や集会所らしき建物が並び、その中の いくつかの建物の中に、白い服と運動靴姿の人々が吸い込まれて行く。 男性は、入り口付近で、持参した祈祷用の布「タリート」を肩からショールのように かけている。 そうかと思えば、袋から、真っ白の白衣のような服を取り出し、服の上から羽織る人 の姿も見られる。

外の中庭では、白い服を着た子供達が、駆け回って遊んでいる。 5時20分からコール・ニドレイは始まるらしい。

コール・ニドレイ。 私にとってこの言葉は、大変に馴染みが深い単語である。 高校時代、ビオラの検定試験の課題曲が、このヨム・キプールと 関係の深い「コール・ニドレイ」という題名だったのだ。 作曲者はマックス・ブルッフ。

試験の為に、この「コール・ニドレイ」という曲を かなり真剣に練習をしたのだが、 楽譜の最初に、簡単に曲目解説が載っていた。 ビオラの先生が、 自分の内面を見つめ、静かに黙想するユダヤ教の深いお祈りと関係がある、と 説明してくれた事を覚えている。

ビオラ好きの父が、自分が尊敬するイギリスのビオラ奏者ウイリアム・ プリムローズがパイプオルガンの 伴奏で演奏する、「コール・ニドレイ」のレコードを聞かせてくれた。 曲は、問いかけと答えというような、静かでかつ深い雰囲気の曲想で始まり、 次第に明るく輝かしい個所に昇っていく。

シナゴーグからこの曲が聞こえてくるかと、少し期待していたが、 そのようなことはなかった。 入り口から見える信者達は、 男性と女性に分かれて並び、祈祷書を手に立って祈っていた。

暗闇の中のシナゴーグを後にして、町に出ると、 車道は、完全に歩行者天国と化している。 子供達が嬉々として自転車や、ローラースケートに興じている。 大人も車道を散歩している。 救急車以外の車両は走らないそうだ。 車だけではなく、飛行機も飛ばない。

テレビ、ラジオの放送も夕方からストップする。 48チャンネルあるケーブルテレビも、国際放送や外国放送以外の イスラエルの放送は、明日の夜までお休みである。

家にいても、外に出ても、普段との違いは充分に感じることができた。 この特別な日に、突然、周辺国から襲撃を受けた「ヨム・キプール戦争」、 イスラエル人にとっては、まさに「せいてんのへきれき」、 それはそれは慌てふためいたことだろう。 メディアが完全にストップしているこの日、 国民はどのようにして、戦争の勃発を知ったのだろうか。

「ヨム・キプール戦争」だけに限るのか、その点は調査不足であるが、 この休日には、死者を悼む意味もあるようだ。 ラジオでは、放送がストップする前に、首相による、 遺族の為のスピーチが流れる。 人々はお墓参りをする。 日本の終戦記念日・お盆の中日を思い出す。


9月18日(土曜日)

庭に散歩に出ると、ニュージーランドから来ているデビの親子に会う。 少し子供たちを遊ばせながら話しをする。

彼女たちは、ここの滞在の後、まだどこに行くかが決まっていないらしい。 ということで、こちらに来る前に、ニュージーランドの家を引き払ってきたそうだ。 ニュージーランドでは、アパート暮らしをしている人は、 限られているそうで、 彼女たちは、このような集合住宅での暮らしは初めての経験だと言っていた。 子供たちが家の中で大騒ぎをしたり、ボール遊びをする度に 近所迷惑になるでしょうと注意しなくてはならないのが、 窮屈らしい。

ご主人の実家は酪農農場で、牛などの家畜に囲まれた生活で、 子供たちは、おじいちゃんおばあちゃんの家に行くのが楽しみに なっているとのこと。 彼女の英語は、ニュージーランド訛りが強く、大変に聞き取りにくい。 それでもめげずに話していると、少しづつ勘も働いてくる。 が、やはり、まだまだ分からない部分が「相当」ある。

彼女の情報では、2階のブラッハは月曜日に出産して、 木曜日に帰ってきたそうだ。 3人目の赤ちゃんは男の子。 名前はまだない。 彼女の家族は敬虔なユダヤ教徒なので、 生後8日目に、割礼式をするのだろう。

夕方は、ビローセンターに気晴らしに出かける。 といっても、洋品店が多いので、時間がつぶせない。 玩具屋で、衣におもちゃの鉄琴を買う。 本屋で、ハアレツ、ヘラルドトリビュートという英字新聞を買ってみる。 多分、この新聞については夫が日記に書くと思うので、 私は説明を控える。

中華料理屋で、日本人の従業員の労をねぎらっていこうと思うが、 今日に限って姿が見えず、早々に引き上げることにする。

帰宅後、夫と衣は鉄琴に夢中。 衣も嬉しそうに、おちょぼ口になりながら夫の演奏を聞いたり、 自分でもばちを操ったりしている。 夫は、早速ジャズのフレーズを演奏してみようと、四苦八苦しているが なかなかうまくいかず、結局彼の得意の鼻歌や、童謡を叩いてみている。

私は、彼らの演奏をBGMに聞きながら、聖ペテロ魚を調理する。 といっても、調理済の冷凍食品なので、単にオーブンで焼けば良いのだが・・・。 ガリラヤ湖で捕れるスズメダイの一種らしい。 味付けがとても濃いのだが、きっと魚自体は美味しい部類に入ると予想される。

夕食時に突然「ブォー」と音が鳴ったので、てっきり、新年やヨム・キプール に、シナゴーグで吹くという角笛の音かと思い、わくわくする。 が、すぐに2階で机か椅子を引きずった音だとわかり、がっかりする。 新年の角笛を聞きそびれたので、敏感になりすぎていたようだ。


9月17日(金曜日)

どうやら昨日から2階のブラッハが、赤ちゃんを連れて戻ってきたらしい。 彼女は予定日を2週間以上も過ぎても、なかなか3人目の子供が生まれず、 宿舎の住民は、まだかまだかと待ちに待っていた。 新生児らしい一生懸命な泣き声が、開け放った窓からかすかに聞こえる。 衣にも聞こえるらしく、2人で窓辺に座って2階を見上げながら、 「あっ、今泣いたねー、あー又泣いたね。聞こえた?」 と、赤ちゃんの声を聞いている。

今晩の夕食は、昨日買ってきた「餃子のような物」に挑戦してみた。 冷凍食品なのだが、熱湯で数分茹でて食べる。 これは、まさに「水餃子」である! 夫と「美味しい、美味しい。」と 酢醤油でパクパクと平らげる。 何という食品なのか、辞書で調べる。 「肉入り」という部分は読めるのだが、 肝心の食品名は辞書に載っていない。 しかし、ヘブライ語の下にロシア語が印刷されているので、 きっとロシアの食べ物なのだろう。 これは、掘り出し物である。

最近、新聞に加えて「エルサレム・レポート」という、 隔週に発行される雑誌も買ってみている。 以前、エルサレム・ポストで働いていた腕の良い記者たちが、 一気に移動して作った雑誌らしい。 それによって、エルサレム・ポストの質が落ちたという評判も聞く。 確かに、夫が指摘するように、新聞の記事のように、 毎日の出来事が簡潔にいる書かれている記事とは違い、 あるテーマについて、記者考えが盛り込まれて書いてあるので、 私にとっては高度な内容である。

が、腰を落ち着けて読むのには良い素材だと思う。 まず、サイズが良い。 雑誌サイズなので、 新聞のように扱いにくいことがない。 今日は、アメリカのユダヤ人が娘を連れて嘆きの壁を 訪れた時の経験、彼らが感じた嘆きの壁における疑問と、 その疑問の解決方法を、 子供の単純な視点から導き出している記事を読んでみた。

嘆きの壁は、壁が仕切られていて、向かって右側が女性用、 左側が男性用、それも男性用のスペースのほうがはるかに 広いのである。 その不公平さと「オーソドックス」と呼ばれる、 敬虔なユダヤ教の宗派に対する、 軽い批判が読み取れる記事である。

解決方法はいたって簡単。 壁の前をきっちり公平に3つに分ける。 一つは男性用、一つは女性用、そしてもう一つは男女兼用。


9月16日(木曜日)

日本の従姉からメールが届く。 敬老の日に、孫一同から祖母宛てに、 花束を贈ってくれたらしい。

敬老の日のことをすっかりと忘れていた。 今週末にでも、祖母宛てに手紙でも書こう。 などと考えているうちに、そう言えば、我々の両親も 衣の誕生とともに、敬老の日に「敬老」される(?)立場に昇格したという 事実に気が付き、いささか慌てる。 初敬老の日を見事に逃してしまった! 失敗、失敗。

午前中にアンジェリカと一緒に、 子供を連れて研究所のレクリエーションセンターに行く約束をしていた。 が、案の定、「延期」となる。 定番の理由「ベンヤミンが寝ているから」。 彼女との約束が一発で果たされる可能性は、 極めて低いという事は経験から学んでいるので、今更驚かない。

しかし、昨日から衣と「明日はねー、ベンヤミンくんと遊ぶのよー。」 と話しながら楽しみにしていたので、ちょっと調子が狂ったのは事実。

夕方は3人で買い物に出かける。 週明けに、ユダヤ教において最も大切な、 人と神に一年間の罪を謝罪するヨム・キプールがあるので、 買い物客が多い。

今日は少し珍しい物も買ってみることにする。 果物のライチ、かまぼこ、チーズ、さつま揚げのような物、 チョコボール、餃子のようなもの、など少し欲を出してみる。 が、清算の時に、「なんか、今日はいつもよりも合計が高いけど・・・。」 と、すかさず夫に指摘されてしまう。

本屋で、「ヘブライ語の詩」というペンギンブックの本を見つけ、 思わず買いそうになり、定価を見ると100シェケル(3000円)とあり、 慌てて書架に戻す。 いつもは用事(プレゼント用の本を探すこと) を済ませるだけの時間しか無いのだが、 今日初めて英語の本も結構並んでいることに気が付く。

本屋に行くと、どうしても興奮状態になってしまう。 特に、優柔不断の私の場合はそうである。 限られた時間の中で、できるだけ多くの本を「見よう」と、 目が泳いでしまい、 アドレナリンがびゅんびゅん流れる。

思い出した。 小さい頃、文房具屋さんか、本屋さんと 結婚したいと思っていたのだった。 その名残で、今でも、文房具屋と本屋では我を忘れてしまう。 店を出る時は、思いっきり後ろ髪をひかれる思いで店を後にする。


9月15日(水曜日)

午前中に3階の日本人の奥さんの所にお邪魔して、 2人でヘブライ語の勉強をする。 衣は、おもちゃを籠一杯独り占めし、余りの待遇の良さに戸惑っている。 我が家は、まだまだ子育て駆け出し組なので、おもちゃの数も限られていて、 おもちゃというよりは、「ごみ」のような物(空き箱、空き缶、ペットボトル) などがおもちゃの代用を果たしている。

彼女は(衣ではなく、奥さん)驚いたことに、昨日のレッスンの前夜、 6時間も予習復習をしたそうだ。 私と、余りの気合の入れ方の違いにたまげてしまう。 さすがにみっちりと勉強しているだけあり、 質問も私が見落としている詳細に渡った質問で、 答える方は、一気にしどろもどろ調になってしまう。

このように常に疑問を抱きながら勉強すればきっと、得るものも多いことだろう。 私の勉強の仕方は「ざる」のようで、ざーざーとこぼれ落ちる割合が多い。 「ざる」型の私とみっちり型の彼女で、 一緒に勉強するのには、丁度バランスが良いのかもしれない。

2人であーだこーだとやっているうちに、衣はおやつに出していただいた かっぱえびせんを、さくさくと、コレマタ独り占めしている。 かっぱえびせんなど懐かしく(単に外国に来ているからという意味だけでは なく、もう久しく食べた記憶がない)、 どさくさにまぎれて私もさくさくと頂く。

夕方は公園で遊ぶ。 円円ちゃんも来ていて、お母さんと話す。 9月から幼稚園に行き始めたが、午前中いっぱいで帰ってくるので、 お母さんの方は、なかなか「のんびり」とまではいかないらしい。 衣はと言えば、お兄ちゃんお姉ちゃんが作った砂山を崩し、 「あーあー」と非難を浴びている。

それにしても、子供というのはどうしてこんなに砂が好きなのだろう。 自分も子供の頃、熱中して砂場で遊んだ記憶がある。 砂はそのままでも、水を加えても、又、道具を使っても自由に遊べること、 そして手や足を使って、 小規模にも大規模にも遊ぶことができるのが魅力なのだろうか。

皆、服も体も砂だらけにしながら夢中で遊んでいる。 あーこんなに汚しちゃって・・・、家が砂だらけになる・・・、などと ため息をついているのは、母親だけである。

事実、衣の帰宅後の家の中は、砂砂砂砂砂・・・。 まあ、拭けば済む事ですがね。


9月14日(火曜日)

3階の日本人の奥さんも参加して、 久しぶりに5人揃ってのヘブライ語のレッスンが実現する。

今日は食品の名称や「食べる」という動詞を使っての 練習。 衣の好きな「ピルペル(ピーマン)」 という単語なども登場。 食品の説明になると、ハユタ先生が「チーズ持ってきて」 「牛乳持ってきて」「ピーマン持ってきて」「ハム持ってきて」 と言うので、冷蔵庫と居間を行ったり来たりで、その度に 何かを勘違いした 衣が、ちょろちょろと後を付いてくる。

最後、子供たちが飽きてくると、すかさずハユタ先生、幼稚園の先生に 早代わりである。 今習っている「前」「後ろ」 「右」「左」などの単語を巧みに使って、 こちらのお遊戯を教えてくれる。 男性には少々気恥ずかしい内容だろうが、我々子持ちの主婦にはもってこいの お楽しみレッスンに早代わりである。


9月13日(月曜日)

昨日が休日だったので、今日から一週間が始まる。 日本のようである。

あっという間に、明日は火曜日。 今週は、ヘブライ語の予習復習を真面目にしていない。 まあ、そういう週があっても、継続することが大切なのである。 (言い訳)

新聞の切り抜きのレシピで、アップルパイを焼いてみる。 全粒粉らしき粉を買ってあったのだが、 一応、表示を見てみると、「レヘル(パン)」らしき語が書いてある。 ということは、強力粉かー。 でも、全粒粉が使いたい、ということで、無謀にも薄力粉に加えて 強力粉らしき全粒粉を少々混ぜて、パイ生地を作ってみる。 ははーん、やはり強力粉の威力は恐ろしい。 生地をまとめている間に、ゴムのように弾力性が出てくる。

そこでやり直さないのが、「私流」のお菓子作りなのだ。 ゴム状の生地を精一杯伸ばし、パイ底と格子模様をどうにか切り出す。

明らかな失敗に不満足の私は、 バナナケーキを焼いて気を取り直す。 こちらは、3回目ということで、だいぶコツもつかめてきた。

ということで今日の日記は、私の「有閑マダム」振りをご披露しました。

「そんなことをしている間に、ヘブライ語の勉強をしなさい」 という厳しいお言葉は、ご遠慮願います。


9月12日(日曜日)

日中にテルアビブの海岸沿いに出かける。

9月に入ってから、ごみ敗北の収集業者のストライキがずっと 続いていた為、街のあちらこちらに小高いごみの山が見られる。 レホボトの街中のごみの山とはスケールが違う。 数日前も、先日のリクード党の党首選で敗北したエルサレム市長が、 ごみの山の掃除をする写真が新聞に載っていた。

ごみの山は別として、地中海はいつものように広々として気持ちが良い。 夫が「はまっている」アラブの音楽のCDを買い、以前も寄った「ヨトバタ」で 軽食を取ることにする。 オレンジジュース、メロンジュース、そして 3階の日本人奥さんのお勧めの ヨトバタトーストを注文する。

メロンジュースといえば、 小さい頃からデパートの地下食料品街のジュースコーナーで、 その魅力的な緑色の液体を、羨望のまなざしで眺めていたものだ。 就職してから、 お財布に余裕がある時に意を決し、仕事帰りに 勇気を出して立ち飲みした覚えがある。 こういう風だから、友人に「あなたは貧乏性だ」と指摘されてしまうのだろう。

夢のメロンジュース、繊維質たっぷりにオレンジジュース、 そしてヨトバタトースト、どれもすこぶる上々である。 ただ気になったのは、隣の4人連れのお客が、何かしゃべっては体をよじらせて 大笑いをして、なんだか感じが悪かった。 楽しげに笑っているのなら、他人の目にも愉快に映るのだろうが、 彼らの場合は、話の内容は全く分からないのだが、 明らかに「何か」を馬鹿にして楽しんでいる様子だった。 まあ、「人の振り見て我が振り直せ」と思えば良いのだろうが、 やはり気分の悪いことには変わりはない。

帰宅後、お風呂や衣の食事の準備、 クッキーを焼いて、7時からグレゴーとその仲間たちと3度目の合奏をする。 今日は、グレゴーの家が会場となる。 いつもと同じ曲を、順番に弾いていく。 途中、お茶の休憩をはさみ、9時半頃まで熱演する。 私とグレゴーは、やはりここの建物の住民なので、音が外に漏れることを 多少気にしながらの合奏だった。 途中、「うるさーい!」と近所の人が駆け込んでこなくて良かった。

ドイツ人はなんでも徹底的にするのだろうか。 これで、この3週間連続で合奏をしていることになると思う。 皆、楽しくて楽しくてしょうがないという感じなのである。 勿論、私も「楽しくて楽しくてしょうがない」の一員なのであるが・・・。

もう一つ面白い点は、以前も書いたような気がするが、 会話の中で「○○は英語で何と言うのか」「○○はどう表現するのか」と、 ロッホスさんがしきりに皆に質問をするのだ。 かなり流暢に英語を操る彼が、 これほど意識して英語を使っているとは思ってもいなかったので、 不思議な感じがする。 皆で「あーだ、こーだ」と言っていると、 なんだか英語学校にでもいるような気分になってくる。

英語に何不自由していないような彼らでさえ、多少「コンプレックス」 を感じているようなので、少々安心する。 そう思うと俄然、勇気が湧いてくる。 このような思考回路は、単純すぎるのでしょうか。


9月11日(土曜日)

お昼から、エルサレムのイスラエル博物館に行く。 今日の目的は、特別展の「カンデンスキー展」である。

数週間前から、新聞で大々的に広告をしたり、 文芸欄に特別記事が掲載されたりと我々の興味をそそってきた。 カンデンスキーの絵は、若い頃から好きな絵だったので、 楽しみに出かける。

前回の博物館の入場券の半券を提示すると、2回目以降の 入場は半額となる。 我々も、なんとか半券を無くさずに保管する事に成功し、 今日は半額の値段、プラス特別展の入場料を払って入館する。

連休中のテロに備えてか、入り口の警備のお兄さんは 今日は銃を持って見回りをしている。 入り口では、観光客相手にパンを売る商売上手のおじさんが 忙しく、パンを売りさばいている。 (休日なので、カフェや売店が閉まっているのだ)

肝心のカンデンスキーの展覧会は、35点という小規模のコレクション なので、わけなく見ることができる。 が、日本での展覧会を思い出させる 人混みには驚いた。 衣も、新聞の広告で見ていた作品の他にも、 幾つか気に入った絵があったようで、衣なりに楽しんでいたようだ。

帰りに、すぐ目と鼻の先のクネセット(国会議事堂)を 外から眺めて帰途につく。 クネセットは内部も見学可能であるが、パスポートなどの 身分証明書の提示が必用とされると、受付に書いてあった。 いつか、見学しても面白いと思う。


9月10日(金曜日)

レンタカーを借りて、週末の買い物に出かける。 ローシュ ハシャナーの週末なので、予想通りショッピングセンターは 人で溢れかえっている。

買い物をささっと済ませ、昼食にピザを食べる。 この店のピザは、いつ食べても美味しいと思う。 ピザだけでなく、 おかずやサラダやパスタも注文できるので、 けっこうしっかりとした昼食になる。

帰り際に下膳をしていると、 「スリハー(すみません)、○×*#+%$&?」 と、子供連れのおじさんに、 いきなりヘブライ語でまくしたてられる。 「はぁ〜?」 と、戸惑っていると、 今度は英語で「あそこのテーブルをきれいにして! それと・・・」 「あれっ、あなたここで働いている人? あっ、そーじゃない?」 と、今頃になって基本的な質問をしてくる。 そーゆーことは、一番最初に聞いて下さい。

何を隠そう、私、このように従業員と間違えられたのは、これが 初めてではない。 レホボトに来てから、スーパーで 「スリハー、○○はどこにあるのかしら?」(おおよそ、 そのような事を聞いているのでしょう)と、呼び止められた 経験が3回ほどある。 その度に、なぜ間違えられるのかと考えてみるのだが、 多分、地味な服装、アジア系の女性、買い物かごを持たずに 商品をいくつも抱えて小走りに店を右往左往している、 等の条件がばっちり揃ってしまい、「にわか従業員」に 変身してしまうのだろう。

夕方は、アシュドットの南に位置する、 ニッツァニムというビーチに車を走らせる。 このビーチは人が勧めるだけあり、 広々として、砂浜もきれいで気持ちがよい。 今晩はローシュ ハシャナー イブなので、日本で言えば 大晦日。 こちらは、日没と共に次の日が始まると勘定するので、 「ゆく年くる年」を海岸で経験しようということになる。

最近は日没時刻が早くなったので、6時過ぎには、すでに 太陽は地中海の水平線に沈んでいく。 海水浴客もまばらで、うち寄せてはひいていく波の音が、 耳に心地良い。 青い海面に、夕陽の紫色やさくら色、だいだい色が柔らかく溶け、 それはそれは美しい。

ユダヤ暦5760の幕開けである。


9月9日(木曜日)

昨日から泊まりがけの来客があった。 日本からの女性と、 引率のイスラエル人の友人の2人組である。 昨夕、研究所の中を案内し、夕食は我々がよく行くシシカバブ等を 食べさせるレストランにみんなで繰り出す。

彼女は我々と同様、数多くのサラダや巨大な串刺しの焼き鳥 に目を丸くしていた。 こちらに来て初めての泊まり客で、大変に楽しい一時を過ごすことが できた。 自家製の梅干しや緑茶、 日本酒など重いのに沢山のお土産を持参して下さる。 梅干しや日本酒は、 我々も持ってきていなかったので大変に嬉しい。

今朝は6時半に起床し、彼らは朝早くにエルサレムへと旅立った。 1週間ほどの行程中、何事もなく無事に、そして充分イスラエルの 自然や文化を若い感受性で堪能して欲しいと思う。

夕方はアンジェリカの家で、ベンヤミン君の1歳の誕生日会が 催された。 アンジェリカお手製のバースデーケーキを囲み、 いつものメンバーが集まる。 ベンヤミン君には、衣がたいそう 気に入っているこちらの絵本と同じ物をプレゼントする。 アンジェリカも、多少は解読可能になってきていると思っての プレゼントだ。

ウクライナからの留学生夫婦のご主人と初めて話をする。 既に3年、これから2年という長丁場の滞在である。 一人娘のアンナちゃんは、こちらで生まれたそうである。 奥さんはウルパンというヘブライ語の語学集中学校に通い、 ヘブライ語がかなり話せるのだが、ご主人のほうは、 やはり研究が忙しく、又、英語だけでも精一杯だと言っていた。

別れ際には、皆で「シャナ トバ」(新年おめでとう)と 挨拶を交わして別れる。


9月8日(水曜日)

午前中に、3階の日本人の奥さんが、昨晩教えてあげたレシピで リンゴケーキを焼いた。 彼女にとって、初めてのレシピなので、作っている最中に何度か 確認や質問の電話がかかってくる。 お昼近くになって、できたてのケーキの1切れを「味見」 のために持ってきてくれる。 衣と2人で、思わぬプレゼントに舌なめずり・・・。 とっても美味しく焼けていました。

このケーキは明日、 子供の幼稚園に持っていかなくてはいけないらしい。 多分、新年のお祝いの行事をするのだろう。

私もつられて、新聞に載っていた蜂蜜ケーキを焼いてみた。 泡立て方が足りなかったせいで、本来スポンジケーキになるはずの ところが、パウンドケーキのようになってしまった。 それでも、味はなかなか変わっていて美味しいと思う。


9月7日(火曜日)

8時過ぎに日本人の奥さんより電話が入る。 末の子供が発熱、嘔吐ということで、今日のヘブライ語のレッスンは 泣く泣くお休み。 続いて、ヘンリックから電話がかかってくる。 沈んだ声なので、「風邪?」 と尋ねると、「ギッダが入院したので、 急遽帰国することになった。航空券の手配などしなくては ならないので今日は休む。」とのこと。

夜、ポストの鍵と冷蔵庫の中身をもってヘンリックが現れる。 ギッダは出血があったため、入院したらしい。 予定日よりも5週間早い入院なのだが、9月29日に 一応出産予定を早めたそうだ。 彼は、もともとは10月の始めに帰国する予定だったので、 大分予定が変更されたことになる。 でも、ギッダ本人とも電話で話すことができたらしく、 朝よりは落ち着いた様子だった。

ヘブライ語のレッスンの仲間も、みんな心配している。 特にハユタ先生は、わざわざ昼間に電話をかけてきて くれた。

今朝、彼女に渡した授業料の封筒にヘブライ語で 「ありがとう」と書いたのが嬉しかったらしく、 そのお礼から始まり、ギッダのこと、レッスンのこと、 新年のこと、イスラエルの観光地のこと、 イスラエルの老人問題のことなどなど、おしゃべりが 止まらなくなってしまった。 レッスン外のこうしたおつき合いも楽しいものだ。 こういうおしゃべりから、この国が見えてくるので、 彼女は貴重な情報源となっている。

96歳のお父さんがいる彼女が、電話の向こうで生き生きと語る 相手をしていると、変な話だが、まるで「親孝行」を しているような気分になってくる。

夜、階段で2階に昨晩越してきた家族に出会う。 昨晩遅くに、スーツケースをがらがら言わせながら、子供連れの 家族が階段を昇っていく気配があった。 窓に耳をくっつけて会話を聞き、どこの人か推測しようと試みたのだが はっきりは会話は聞こえてこない。しかし、どうやら英語ではない。 そのうちに「ヨー」という声が聞こえる。 その瞬間「えっ、フィンランド人?」という期待が頭をよぎった。

この推測は大当たりで、彼らはフィンランド人だった。 自己紹介をした時点で、「アイノ」と名乗ると「フィンランドの 名前のようね。」「そうなんです、フィンランドの名前から 名付けられたのです。」 レホボトに来て、2度目の「このパターン」の会話が始まる。

6歳の子供の下にあと2人の子供、そして子供の面倒をみる ナニーも一緒の1年間の滞在らしい。 彼女自身も、聴覚障害を持った子供の初期教育について、 こちらで勉強するらしい。 彼女の研究分野について話を聞くだけでも、興味深そうで わくわくする。

ヘンリックは明日の早朝、アテネ経由でデンマークに帰国することに なったのだが、ニュースを見ていると、なんとアテネの北部で 大規模な地震があったというではないか。 彼の家のテレビはケーブルテレビと契約していないので、 ヘブライ語の放送が2局しか入らないはずなので、 急いで電話をして、地震の情報を伝える。 短時間に色々なことが次々に起こって、彼、胃潰瘍にでもなって しまわないかと心配である。


9月6日(月曜日)

3階の日本人の奥さんと、 ヘブライ語解読作戦をじっくり2時間ほどした。 というのも、彼女の小学校に通っている長男の持ち物のプリントが ヘブライ語で書かれていて、分からない部分があるというので、 我が家の辞書を使って、2人で解読することになったのだ。

絵の具、画用紙、色紙、シールなどなど、2人で四苦八苦しながら 順に解読を進める。 中でも可笑しかったのは、「仲人、結婚仲介人」という単語が いきなり登場して、2人で首を傾げていたら、2番目の意味で 「ホチキス」とあったのには笑えた。 つまり、2つの物を「くっつける物」という意味からできた 単語なのだろう。

2人で、あーだこーだとやっているうちに、 軽く2時間が過ぎる。 彼女は日々の生活が、このような悪戦苦闘の連続らしい。 いやはや、3人の子供をそれぞれ、小学校、幼稚園に通わせ、 それぞれの先生達とやりあっている 彼女にはほとほと頭が下がる。

こちらでは、小学2年生から「トーラー」の勉強が始まる。 9月から2年生になった彼女の長男も、しっかりと「トーラー」 の教科書を配布されたようだ。 見せてもらったが、以前ハユタ先生が言っていたように、 それぞれの行の脇に、赤、青、黒の印が付いている。 赤は「重要」、黒は「抜かしても良い」、と分類されている。 それにしても、彼は実に貴重な体験をしていると言えるだろう。 がんばれ、新2年生!


9月5日(日曜日)

昨日はキブツの事を書いているうちに、重要な事を書くことを すっかりと忘れてしまった。

エジプトのシャルム エ シェイカで新ワイ合意の調印式が行われた。 夫と、「まだ? まだ?」と、 夕食時からなんとなくそわそわとし始める。 結局調印式が始まったのは、夜の11時過ぎである。

2人でテレビの前1メートルの床に座り込み、 緊張しながら「その時」を待つ。 双方のネゴシエーターが現れ、次々にムバラク、オルブライト、 アラファト、バラク、アブドゥラと、今宵のはれの舞台の役者達が 登場する。

いよいよ調印の作業が始まるのだが、これが、なかなか面白い。 調印するファイル(正式には何と呼ぶのか知らないが、見た目は 高級レストランのメニューの様にも見える)が、5冊もあるので、 バラクもアラファトも勝手が分からず、まごまご・・・。 双方のネゴシエーターが「ああっ、違いまーす、ここですよ バラクさん。」 「ちょっと、そのファイルこっちに廻してくれよ、 ギラッド(イスラエル側のネゴシエーターのファーストネーム)」 と、こんな会話が飛び交っているのではないのかと思える光景だ。

これが、3人の証人のサインの段階になると、益々愉快になってくる。 3人のキャラクターも良い味を出している。 アブドゥラは初舞台を踏む若造、ムバラクは世話やきおじさん、 オルブライトは面倒見の良いおばさん。 その3人の会話は、「えーと、どこにサインすれば良いの?」 「そっちは終わった?」「こっちは済んだわよ。」 ってな感じである。

アブドゥラはスピーチの中で、ワイ合意調印に貢献した父親の 故フセイン国王の業績に触れた。 5人プラス、クリントンのスピーチの中では、前回のワイ合意に イスラエル側の代表としてサインをした故ラビン首相の ことも触れられた。 あの合意から色々なことがあった。

日本にいた頃は、イスラエル・パレスチナ問題は遠い国の 問題にしか過ぎず、実際のところピンとこなかった。 しかし、 こうしてオンタイムで、調印式までの緊張や盛り上がりを、 追ってくると、やはり調印式の映像は感慨深いものとなる。

が、このような晴れ舞台の翌日に、すでに車両爆弾テロが2件も 起こってしまう。 今朝の新聞の1面は、5人が笑顔で握手を交わしている写真 で飾られているが、きっと明日の朝刊の1面は、 残忍なテロの写真によって乗っ取られることだろう。 これが、この地域の政治の難しさ、現実なのだ。 調印はされ、捕虜の釈放やガザ港の開港の 実際のタイムテーブルもできあがったようだが、 これからが本当の意味での正念場と言えるだろう。


9月4日(土曜日)

午後からレビディームというキブツに行く。 キブツを訪ねるのはこれが初めてなので、期待を胸に、いそいそと タクシーに乗り込む。

キブツの中心という、考古学博物館の前でタクシーを降りる。 なんだか小さな博物館、開いているのかと少々不安に思い ながら扉を押すと、一応開館しているようである。 中は本当に小さな博物館で、キブツの住民の40代位の おばさんが受付に座っている。 キブツの住民は大人と子供を合わせて200人、 歴史は1949年まで さかのぼる。

博物館の他には、アクセサリーショップ、イタリアンレストラン、 カフェ、プール、ユースホステル、B&B、牛舎、メンバーの住居、 などが広い敷地内にある。 こう書くと、魅力的に聞こえるかもしれないが、昨日が安息日だった ことも多少は関係しているのだと思うが、 なんとも活気に欠ける場所なのだ。

博物館をどんなに丁寧に見学しても、ものの10分で終わってしまう。 おばさんとおしゃべりしても、彼女は入り口の鍵を じゃらじゃらと鳴らしながら、 最後の客の我々の相手をしてくれるので、なんとなく落ち着かない。 ただ、興味深かったのは、 ギリシャの壺に描かれていたという、おもりを付けた 機織りの複製が展示してあったこと。 実家の母が趣味で織物をしているので、興味があるかなと思い、 ビデオに収める。

とりあえず、牛舎でも見に行こう、 ということでその方角に歩いていく。 衣は、牛と言えば、牛乳パックに描かれた牛しか知らないので、 本物の大きな牛に出会ってたいそう 嬉しそうだった。 牛舎を離れる時には、名残惜しそうに「ばいばい」と何度も手を 振る。

住居の方は、プライベートなので立ち入り禁止なので、 平屋の家々をかすめて、博物館の前に建つホールのような建物の 扉を押す。 ここも博物館同様、ひっそりとしている割には扉が開いている。

中はどうやら食堂のようで、テーブルや椅子が合宿所のように 並んでいる。 壁には掲示板があり、手書きのメモが所狭しと貼ってある。 天井からは、「シャバット シャローム」(安息日の挨拶) ときれいに刺繍された垂れ幕が下がっている。 入り口のすぐ脇の壁は一面、私書箱のようになっているので、 各人宛の郵便が届くメールボックスのようなものだろう。

他に見る物もないので、イタリアンレストランで休憩しよう ということになり、サイロを改築したようなレストランに入る。 確かにイタリアンレストランで、ワインがずらりと並び、 メニューには「自家製パスタ」「自家製ケーキ」と ある。

残念ながら、 パスタを食べるのには中途半端な時間帯なので、 飲み物とクッキーを注文する。 我々が描いていたキブツの印象と余りにもかけ離れているので、 夫と目で会話をしながら「おやつ」をいただく。

そろそろ帰ろうかということで、店の人にタクシーの電話番号を聞くと、 知らないという。 電話番号案内にかけて調べてくれ、電話してくれるのだが、 休日で応答がないらしい。 しかたなく、レホボトのタクシーに電話をかけると、運良く 先程、ここまで乗せてきてくれた運転手が迎えに来てくれる ことになる。

20分ほどかかるというので、外で待つことにする。 夫と私は「期待はずれ」の感を隠しきれずに、 なんとか気分をもり立てようと「でも、のんびりしていて 良いじゃない。」「何事も経験よ。」 と博物館の階段に腰掛けながら話す。

一方、衣はと言えば、 こちらは楽しくて楽しくてたまらないようである。 カフェの前の小石の道を何度も往復したり、 芝生を小走りして、ブーゲンビリアの花びらを 拾ってはちぎり風で飛ばしたり、 博物館前の階段を昇ったり降りたり、腰掛けたりと 満面の笑みをたたえて生き生きとしている。

我々の気分とは裏腹に、 衣が余りにも楽しそうにしている姿を見ていると、 次第に「ずっこけた」笑みがお互いの 顔にも浮かんできて、夫も私もなんとなく 「ある種の」楽しい気分になってくる。

タクシーがやって来る。 運転手さんと目を合わせて、お互いに苦笑い。 「ここがほんの小さな所だってこと、知らなかったのか?」 と言うので、「これが、我々の初めてのキブツ訪問だったから、 全く知らなかった。」 「どこか、お薦めのキブツはあるか。」 と聞くと、なんのことはない、レホボトの我が家からものの 10分ほどの所に もっと時間を費やせるキブツがあると言うではないか。 まあ、何事も経験、経験。


9月3日(金曜日)

お昼から、 グレゴーとその仲間たちと一緒に、 2度目の合奏をする。 今日はロッホスさん(「ブロッホさん」だと思っていたが、 実は「ロッホスさん」だった)の家が会場となる。 グレゴーの運転で、12時過ぎにロッホスさんの家に着く。

まずは腹ごしらえということで、ロッホスさんが用意してくれた クッキーやジュース、私の手製のケーキなどを皆でぱくつく。 地上8階の極めて眺めの良い明るい部屋で、心地よい風を 受けながら、洗濯ばさみで譜面を留めての合奏である。 今日も先週と同じく、モーツァルト、ベートーベンを順番に弾く。 先週に比べ、四人の息が多少ではあるが合ってきたように感じる。 それに伴い、ハーモニー「らしき」物も聞こえだした。

今回は、私のビオラも大分「お行儀」が良くなって、 「ビヨーンビヨーンビヨーン、ベンベンベンベンベン」と 調弦をする必用回数もかなり減った。

先週に比べ少し短めの演奏時間で切り上げ、「じゃ、又ねー!」 と別れる。 ロッホスさんは、明日から一週間ドイツに一時帰国予定。 チェロのダフネさんはイスラエル人の女性で、只今妊娠七ヶ月目。 四人共、英語が母国語ではないので、 「○○って英語で何て言うのかなー?」 「○○じゃない?」 「えー、違う違うー、○○ですよ。」などと言いながらの 合奏である。

グレゴーと世間話に花を咲かせながら帰ってくると、 昼寝から目覚めた衣が、ご機嫌で出迎えてくれる。 私も、楽しい息抜きの時間を過ごした後なので、いつもの四倍位の サービス精神と忍耐をもって衣の相手ができる。

夕方は研究所近くの郵便局を見に行く。 驚くべき事に、レホボトに引っ越してきてからまだ一回も 郵便局のお世話になっていない。 「あの」手紙魔の私はどこに行ってしまったのだろうか・・・。 パソコンが壊れたので、手紙を書く気がようやく起こり、 祖母や友人宛に書いた手紙をポストに投函する。

散歩の途中で、八月いっぱいドイツに帰っていたステファニー の一家に会う。 しばらく見ないうちに、 デービッド君がめざましく成長していたのには驚いた。

新聞に、新年の蜂蜜ケーキの記事が載っている。 編集部の人間が、各社の製品を食べ比べ、 その寸評を載せているのである。

「○○社製 蜂蜜ケーキ、○○シェケル、ぱさぱさしている。 前年までの物に比べればましだが、後味に保存料の味が残る。」
「○○社製 蜂蜜リンゴケーキ、○○シェケル、 リンゴが入っているのでしっとりとしているが、 と・に・か・く 甘い。」
「○○社製 蜂蜜ピーカンナッツケーキ、○○シェケル、 どこにピーカンナッツが入っているのか分からない。」
「○○社製、蜂蜜クリームロールケーキ、○○シェケル、 なぜ蜂蜜ケーキと クリームを組み合わせたのか理解に苦しむ。 まずーい!」
「○○社製、蜂蜜ケーキ、○○シェケル、 他社の製品に比べると多少値がはるが、 お客様に出しても恥ずかしくないケーキ。 が、後味が気にかかる。」

・・・と続く。 下らないと思いつつ、結局最後まで読んでしまった。 結局、自家製が一番ということだろうか。

調印式は明日。 リクード党の党首選は、シャロン氏が当選。


9月2日(木曜日)

夕方、バスセンターに買い物に出かける。 ユダヤ暦の新年「ローシュ ハシャナー」を来週に控え、 買い物客がいつもより幾分多い。 スーパーの入り口付近は、新年のギフトセットがずらりと並んでいる。 日本のお歳暮シーズンを思い出す。

先週に増して、蜂蜜やリンゴ、お菓子の類が増量されている。 今日気が付いたのは、粉の棚がかなり充実しているということ。 そして、大量にあるはずの小麦粉が売り切れ寸前なのである。 ローシュ ハシャナーには、お菓子を作る習慣があるのだろうか。 そういえばここ数日、新聞に「リンゴと蜂蜜のケーキ」、 「蜂蜜ケーキ」などのレシピが目白押しなのである。

先日買った「ユダヤの休日のお菓子とパン」の本 にも、ローシュ ハシャナーのページには、 幾つかの種類の「リンゴと蜂蜜のケーキ」 が載っている。 限りなく 「りーんごとはちみつ、とろーりとけてる・・・」の世界である。

食べ物の話題ばかりで恐縮だが、食いしん坊の私としては、 「ローシュ ハシャナーには、来る年が甘美な年であることを祈って、 リンゴやパンに蜂蜜をかけて食べる習慣がある」 という説明を読んだその時から、一体どの様にして「リンゴと蜂蜜」 を食べるのか、が大きな疑問となっていた。 今日、この疑問がめでたく解けた。

昼間、子供向けの番組をテレビで見ていたら、今日は丁度、ローシュ  ハシャナーのことを題材に番組が構成されていた。 年賀状もあるらしい。 新年の歌を「歌のお兄さんとお姉さん」が歌っている。 同じ言葉を繰り返しているので、何かと思って辞書をひくと 「新年おめでとう!」だった。 ヘブライ語を始めて、耳から入った情報だけで 辞書がひけるようになったことは大きな 収穫である。

さて、問題の「りんごと蜂蜜」なのだが、なんのことはない、 お皿に入れた蜂蜜と皮ごと薄いくし切りにしたリンゴを持った 「歌のお姉さん」が、「歌のお兄さん」に差し出すと、 「歌のお兄さん」が、リンゴを一切れ取り、蜂蜜をつけて「ぱくっ」。 これでおしまいである。 実にシンプルなものである。

私も新年を意識してリンゴを袋いっぱいに詰めた。 先日から気になっているもう一つの疑問は、 果物売場に、みたことも無い果物がお目見えしたことである。 これは私の勘では、新年に関係する果物だと思うのだが、 一体全体何の果物なのか分からない。 見かけは小ぶりのビワが枝に並んでくっついている、と 思っていただければ良い。 勇気を出して一枝買ってみた。 今度ハユタ先生にでも聞いてみよう。

ローシュ ハシャナーはイスラエル特有の行事なので、 現地の人に色々と尋ねたいのだが、このような外国人用の宿舎 に住んでいると、なかなか現地の人と交わる機会がなく、 その点、少し物足りない。 これほど恵まれた環境に住みながら、 このような事をぼやいていては、ばちが当たりそうである。

今晩、夏時間が終わり、時計を1時間遅らせる。 色々な人達に「今晩よー、忘れないでねー。」などと お節介に話して歩いたので、本当に今晩で良かったのかと、 ふと不安になる。 私、以外と小心者なのである。 新聞の一面に、ちゃんと「時計を遅らせるのを忘れずに!」と 書いてあるのを確認し、ほっとする。

イスラエルとパレスチナの和平交渉が山場に来ている。 アメリカからオルブライトさんも到着し、新聞もテレビも その話題で盛り上がっている。 と同時に、今日は前回の選挙で負けたネタニアフのリクード党 の党首選も行われ、イスラエルのマスコミ関係者 はさぞかし忙しい事だろう。 双方とも、結果は明日にならないと分からない。

印象的だったのは、いつも「ブライトカラー」に身を包み登場する 彼女が、 全身黒づくめの出で立ちで飛行機から降りてきたことである。 夜の記者会見も同じ服装。 イスラエルとパレスチナの交渉の状況を象徴しているかのようだ。 (といっても、ほとんど、最後の詰めに入っているようで、 「決裂」という結果にはならないと思うが) 交渉に漕ぎ着け、めでたく調印という時に果たして何色の服を着て 登場するのか興味深い。


9月1日(水曜日)

今日から9月が始まる。 今年はユダヤ暦では9月に新年を迎える。 と言っても1日がいわゆる元旦ではない。 新年は来週。 それについては、又その時に書くことにする。

今日は新学年度が始まる日である。 ところが、幼稚園の先生達のストライキがあり、公立の幼稚園は 先生なしで、お母さん達が手伝っての第一日目を迎えた。 研究所の子供達が入っている公立の幼稚園では、先生が1人でのスタート だったらしい。 このような学期はじめのストライキは慣例のようで、 ひどいとき等は、 最初の一週間が丸々休みになってしまうこともあるらしい。

午前中にアンジェリカから電話があり、午後に一緒に遊ぶ約束をする。 久々のアンジェリカとの散歩である。 また、何か相談事でもあるのかしらと思いながら約束の時間を迎える。

研究所の物理の建物の前の広い芝生で、どっかりと座り込み話を始める。 やはり、彼女、又ベンヤミン君の夜泣きのことで悩んでいるらしい。 「いつも睡眠のことばかり聞いていて嫌にならないかしら。」 と、いつものごとく細やかに気を遣っている。

どうも、睡眠時間が足りないか、もしくは多すぎるのではないかと 心配をしているらしい。 衣とベンヤミン君の睡眠時間のトータルを比べたら、ほとんど同じ位で、 彼女、ほっとしたようだった。 それにしても、毎日1回は必ず起こされて、多い時は3回位起きてしまい、 一度起きると1時間位目覚めているそうで、 それではさぞかし辛いだろう。

衣は小さい時から、いわゆる「夜泣き」というものをほとんどしなかった。 その他、食べることに関しては小さい時から何も問題が無かったので、 その点、育てやすい子供と言えるのだろう。 皆の話を聞いていると、 世のお母さん達はもっと子育てで苦労をしているようで、 なかなか的確なアドバイスができずに、悪い気がする。 他のお母さん達は、 一歳前後で夜泣きをする子供にはどのように対処しているのでしょうか。

アンジェリカの心配の種のベンジャミン君も、来週に1歳の誕生日を 控え、一人立ちや一人歩きもできるようになったので、安心したようだ。 以前はベビーフード(しかもドイツのある会社の製品に限る) しか受け付けなかった食事も、今はパタータという甘いお芋、 スイートコーン、肉、パンが食べられるようになったそうで、 少しお母さんとして楽になったそうだ。 いつか衣と一緒に食事をしたら、彼女の食欲につられて ベンヤミン君も食が太くなるなるのではないかな等と、ふと思った。

ヘブライ語のレッスンの事を彼女はどのように感じているのか、 心配をしていたのだが、話をしてみると、案の定ハユタ先生の 教え方は「いまいち」と思っているようだが、全般的には 良いと思って参加してくれているようで安心する。

我々夫婦を含め、ほとんどの参加者が、ハユタさんの教え方は 「いまいち」と感じているということが、この数日、それぞれの参加者と 個別に話して判明した。 しかし誰もが彼女の人柄と、やる気は認めているので、その点は安心である。 それぞれ、人を批判する事で終始するような人達 ではないので、余り心配はしていないのだが、 数回のレッスンを終えて、そろそろ、参加者達の率直な意見が 聞きたいと思っていたところなので、丁度良かった。

語学の独学というのは、相当自分に厳しくならない限り、長続きは しない。 そういう意味でも、毎週決まった時間にハユタさんが教えに来てくれる というのは、我々にとって貴重な「エンジン」となっていると誰もが 言っている。 それに加えて、子供達が「わーわー」言っていても、嫌な顔一つせず、 一生懸命に彼女なりに工夫しながら教えてくれるということにも、 皆それぞれ感謝している様子なので、旗振り役としてもほっとしている。

それにしても、難しいねーとアンジェリカと話した。 彼女のおとぼけ振りは以前にもご披露したが、 またまた耳寄りな話を本人から聞いた。 彼女、授業中に分からない単語をとりあえずローマ字でノートに書き取って いるらしいのだが、前回のノートに「オードリー」と書いてあり、 辞書で必死に調べたが見つからなかったそうだ。 それもそのはず、「オードリー」とは、参加者の「名前」なのである。 そのことに昨日気が付いて、我ながら笑ってしまったという。 私は余りの可笑しさに、帽子を吹き飛ばして笑い転げてしまった。 「あなたのおとぼけにはいつも笑わされるわー。」と、 ついつい告白してしまう。

彼女がただの「神経質屋さん」だったら、 私も付き合いにくいのだが、彼女にはこの「大穴」があるので 私も楽しく付き合わせてもらっている。 ごめん、ごめんアンジェリカ、あなたのユーモアを「ほめて」 いるのよ!


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